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門田博光のバットへのこだわり。
野村克也に学び清原和博に聞かれたこと (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Sankei Visual

 1キロバットの挑戦を思い立ったのは、1979年にアキレス腱を断裂するよりも以前のことである。入団時からホームランへの思いは誰よりも強く抱いていたが、10年目までは入団2年目の31本塁打が最多で、なかなか数を伸ばせなかった。

 そこへパ・リーグは、門田のプロ6年目の1975年からDH制を採用。打つことだけを求められる外国人のパワーヒッターが中軸に座るという流れが各チームにできあがっていった。当時、門田はまだ守備に就いていたが、頭のなかは "アメリカ戦車"へと向いていった。彼らといかに戦うか......。

「ボールを飛ばすには速いヘッドスピードと、バットは軽いより重いほうがええ。南海に入った時にノムさん(野村克也)を見て、40発打つにはそれだけの胸厚があるし、40発を打つバットがあることを知ったんや。だから40発打てる相棒を7年がかりでつくったのが1キロのバットやった。

 最初はキャンプだけ、次はオープン戦の途中まで、そしてオープン戦の最後まで、開幕から1カ月、3カ月......とやっていって、シーズン最後まで扱えるようになるまでに7年。1キロを1年間振れるようになって、やっと外国人に劣等感を感じんようになった。そんなことを知らんヤツは『門田は怪物や』『別格や』と言うけど、170センチのこんな体で何もせんと打てるわけないやろ」

 重さだけでなく、バットの長さも試した。当時も今も34インチ(約86センチ)近辺が主流だが、門田は「長いバットを扱えるならそっちが有利」と34.5インチ(約88センチ)に挑戦。さらに探究心は止まず、80年から4年間、日本ハムの「4番・DH」を務めたトニー・ソレイタが桁外れに長いバットを使っていると知り、興味を持った。

「37インチで重さが940から960グラムくらいのバットやった。これが握らせてもらったらとにかく重い。1インチ長くなると、だいたい20グラムずつ重さがついてくるから、感覚的には34インチの1キロか、それ以上に感じるんや。でも、このバットでソレイタが飛ばしてるなら、オレもこれくらい扱えるようにならんと勝負できへんとまた燃えてな。それで『ヘイユー、プレゼントOK?』で1本もろうたんや」

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