門田博光のバットへのこだわり。
野村克也に学び清原和博に聞かれたこと (4ページ目)
「じゃあ、4割を打つ選手が出てきたか? 3割打者がどれだけ増えたか? 要は打てる球をどれだけとらえられるかの勝負。そこはいつの時代も変わらんし、どうしたら一番飛ぶかといえば、重いバットを速く振ることなんや。ならば、そこに挑戦するのがプロやないんか」
これが門田の持論であり、追い求めたのはプロとしてのあり方。あとに続く選手たちから挑む姿勢が伝わってこないことに門田は物足りなさ、寂しさを感じていた。
門田のバットへの思いはもちろん、強く、そして深い。現役引退の翌1993年に『吾輩はバットである』(海越出版社)という著書を出版している。タイトルどおり、主人公のバットが主人である門田へのボヤキや感謝の思いを口にしながら話は進む。
<ご主人様は調子が悪くなってきたとき、ワシについているマークを後ろによくした。そうするとワシが長く見えて、ボールが当たりそうな気がするらしい>
<ご主人様はワシに「助けろよ、しっかりボールを見ろよ」とよくマジックで目を書くが、今回は超特大の目を黒々と書いた。そこでワシも「よし」と気合を入れ直した>
照れ屋の本人に代わって語るバットの言葉からは、随所に門田の本音が伝わってくる。また、後半のあるページでバットはこう呟いている。
<ワシの身長は34.5インチ、体重は950グラムから1キロあった。背の低めのご主人様にはちょっと荷が重い。無理しなくても、と思ったものだったが「重いバットを速くスイングして遠くへ飛ばす。それは俺の夢をかなえる方法」と、一途に練習するご主人様を見て、感動した>
まさに門田博光の真髄。プロとして理想の打球を求め、"アメリカの戦車"と戦うために挑んだのが1キロのバットであった。
そして門田は現役スラッガーに対して、こんな願いを口にする。
「令和の時代に『このおっさんは何を言うてるんや』と耳を塞がんと、一回でもいいから発想を変えて重いバットを使ったらどうなるんかと挑戦してほしい。キャンプの数日間からでもええ。910や920と1キロではまた違う理論ができあがる可能性があるんやから......箸みたいなバットは少し置いて、重いバットに挑戦する選手が出てきてほしい」
常識を打ち破らんと挑むホームランアーチストの登場を、"昭和のモンスター"はまだあきらめきれずにいる。
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