山田久志が語る谷繁元信獲得秘話。「名古屋って、難しいところだよ」 (2ページ目)
山田は星野の前にジャイアンツの長嶋茂雄監督からピッチングコーチのオファーを受けながら、家庭の事情でこれを断っている。
この誘いは、当時ジャイアンツのオーナーだった渡邉恒雄直々の指名であった。ミスター(長嶋)は言った。
「山ちゃん、これは渡邉会長の直々の指名なんだよ。山田を獲れと」
それ故か、条件は破格で、年俸の他に世田谷に50坪の土地付きの家を一軒、提供(貸与ではなく、文字どおり贈与)するというものであったが、それでも固辞した。
ミスタープロ野球、長嶋の誘いを蹴りながら他球団に行くという不義理は山田の本意ではなかったし、ドラゴンズの提示条件はもっと低かったはずである。そこを稀代のオーガナイザー、星野は口説き落とした。
星野が山田の手腕に惚れ込んだのは、山田がNHKの解説者時代に、中日の沖縄キャンプの視察を依頼してその感想に触れた時と言われている。
「どうだ?」と聞かれて、山田は直言した。「こんな練習じゃあダメです」「いや、俺はやらせてるつもりだけどな」「すべてにおいて甘いです」ただ無駄な時間を過ごしているという感じが山田にはあった。
中日というチームはOBがコーチのポストを占めることが多く、慣れ合いが常だった。星野自身、現役時代は午前11時には宿舎に上がっていたという。外の血を入れなくてはこのチームの改革は出来ないと、星野は自著でも語っている。
山田は星野が勇退後、跡を継ぐ形で2002年に監督に就任。経緯から見ても明らかのように、星野のバックアップが約束されていた。星野は自分が培ってきた野球を託せるのは、山田しかいないということで監督の座を禅譲したのである。
ところが、その星野が急遽阪神タイガースの監督になってしまう。元々が外様である山田は後ろ盾を失い、組織内において完全アウェー、孤立無援の立場に置かれる。それでも粛々と前年度5位に終わったチームの改革に着手して、Aクラスに浮上させ幾つもの種を植えた。
しかしながら、花が咲くその前に3年契約の途中で解任されてしまう。
あれから、16年が経過した。あらためてその足跡を検証する。
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