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【高校野球】「彼らは今でも大事な仲間です」早実・和泉実監督が語る、甲子園に届かなかった南陽工での9年間 (3ページ目)

  • 清水岳志●文 text by Takeshi Shimizu

 だが、当時の山口は宇部商の全盛期だった。和泉が監督に就任して2年目の1985年、宇部商は桑田真澄、清原和博を擁するPL学園(大阪)と夏の甲子園決勝を戦うほどの強豪だった。

「秋も負けて、夏の前には会長旗というシードを決める大会があるんですが、準決勝だったかな、そこでも勝てなかった」

 夏の甲子園で4本の本塁打を打った藤井進、大型捕手の田処新二、投手陣も左の田上昌徳、右の古谷友宏......当時の宇部商の選手たちの名前が、ポンポンと和泉の口から出てくる。

「なかでも1番を打つ佐藤勝実には、何を投げても打たれた。県内のどの高校も、宇部商には勝てなかった」

【9年間の指導で甲子園出場は果たせず】

 9年間の監督生活で、夏の最高成績は県大会ベスト4。秋は2度、中国大会に進んで、あと1勝すれば選抜出場というところまで迫ったが、ついに甲子園には届かなかった。

 津田恒実(元広島)を擁して1978年に甲子園で勝利して以来、南陽工は期待に応えられずにいた。そうした状況にあったうえ、和泉は東京から招かれた"外様"だったが、意外にも指揮は執りやすかったという。

「島田社長や野球部の部長が気を配ってくれて、雑音が入らないようにしてくれていたんだと思います。自分は若気の至りで気にしなかったけど、今になって組織のことを考えると、守ってくれていたんだと思います」

 当時、選手たちとの年齢差は5歳ほど。監督と選手というより、兄弟のような関係だった。

「彼らは今でも大事な仲間です」

 "仲間"というひと言に、若くして飛び込んだ見知らぬ土地で、ともに汗を流し、苦楽をともにした教え子たちへの思いがにじんでいた。

(文中敬称略)

つづく>>

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