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【高校野球】「彼らは今でも大事な仲間です」早実・和泉実監督が語る、甲子園に届かなかった南陽工での9年間 (2ページ目)

  • 清水岳志●文 text by Takeshi Shimizu

 岸田は「次(の監督)は和泉くんがいいんじゃないかな」と、島田社長に推薦してくれたのだという。

「高校野球の監督をやりたいと思っていたからね。そしたら島田社長から『和泉くん、就職はどうするんだ』って聞かれて、『うちに来ないか』という話になっちゃったんですよ。僕は次男坊だったから、家を出てもどうってことはないし、先のこともあまり考えてなかったからね」

 帰京して父親に報告すると、「本当に行く気があるならいいだろう」と、あっさり許しが出た。その背景には、父親自身が山口生まれという縁もあった。

「オヤジは下関生まれで、山口は郷里なんですよ。下関西高校に通っていて、1951年に甲子園に出た時は在校生だったらしいよ。僕はほかにも高鍋高校(宮崎)など数校へ教えに行っていたけど、山口で野球を教えることになった。やっぱり縁があって、導かれるように行ったんですよ」

【宇部商の高い壁】

 大学4年最後の早慶戦を終えると、和泉はほどなくして山口へ向かった。

 そして1984年、正式に南陽工の監督に就任。午前中はシマヤの嘱託社員として働き、午後から南陽工で野球部を指導する生活が始まった。

「島田社長から『教員採用試験に受かったとしても、南陽工に赴任できるかどうかはわからない。それなら、うちの嘱託社員になればいい』と言ってもらってね」

 監督就任後、最初に迎えた新入生のなかに、近隣で評判だったふたりの投手が入部してきた。

「『早稲田から監督が来る』という話が広まったみたいで、入学してくれたんだろうね。その年の夏は負けちゃったけど、秋の新チームでは県大会で準優勝して、中国大会まで進んだ。あとひとつ勝てば選抜......というところまで行ったんだけどね」

 その彼らを連れ、甲子園の外野スタンドで試合を観戦したことがあった。

「そしたらふたりがさぁ、『甲子園は見るところじゃないですね。ここでプレーしないと。今すぐにでもマウンドに飛んでいって、投げたいです』って言うんですよ」

 彼らの思いを叶えたい──。その一心で、仕事前の早朝からグラウンドに足を運び、指導することもあった。

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