【高校野球】大阪の高校球界をザワつかせた異例の人事 履正社出身監督が名門・市岡の再建に挑む (2ページ目)
夏の甲子園地方大会に第1回から出場してる「皆勤校」の市岡野球部 写真は野球部提供この記事に関連する写真を見る
【部員9人の危機が生んだ新しい市岡】
赴任当初の部員数は、3年生23人、2年生19人、新入生18人。しかし翌年以降、10人、13人、7人、6人、3人と入部者が減少。2023年秋には、2年生6人、1年生3人の9人となり、単独チームを組めない危機に直面し、関係者からも心配の声があがった。
2024年から大阪府では高校授業料の無償化が進み、シニアやボーイズなど硬式クラブチーム出身の有力選手が強豪私学へ進む流れは、さらに強まった。
野口さんは当時をこう振り返る。
「結局、(選手が)集まらなかったのは自分の責任やと思うんです。卒業生から『先生は厳しくて怖かった』と言われましたし(笑)」
部員が減れば勝てない。勝てなければ、さらに人が集まらないという負の連鎖に陥る。危機感を抱いた野口は、丸坊主を廃止し、インスタグラムも始めた。その甲斐あって、2024年春には13人が入部。同年秋は大阪大会ベスト16に進み、大阪府の21世紀枠推薦校にも選ばれた。
振り返れば、自分自身も変わっていったという。
「昔は『強くせなあかん』ばかりでした。でも、それだけちゃうやろ、と。気づかないうちに、生徒との接し方も穏やかになっていたのかもしれません」
そう言い残し、野口さんは市岡を去った。
【山田哲人との出会いが変えた人生】
野口さんのあとを継いだのが江原祥太監督である。7年間、顧問として野口さんを支えてきた。
江原監督は淀川ボーイズから府立高校への進学を考えていたが、親戚に勧められ履正社へ進学。3年時には主将として二塁を守り、甲子園出場を果たした。同期にはドラフト1位でヤクルトに入団した山田哲人がいた。
「山田は、体は大きくなかったけど、身体能力がずば抜けていました」
高校卒業後は関西大に進み、4年時には主将として、42年ぶりの明治神宮大会出場に貢献した。もともとはプロを夢見ていた江原監督だったが、高校時代に山田と出会い「こういう選手がプロに行くんやなと。違う形で野球に携わる道を探しました」と、履正社時代の監督だった岡田龍生氏(現・東洋大姫路監督)や、当時コーチだった多田晃氏(現・履正社監督)らの影響もあり、教員を志すようになった。
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