藤浪晋太郎、澤田圭佑と強力三本柱を組むはずが... 大阪桐蔭の大型左腕を襲った病との闘い (3ページ目)
ただチーム状況もあり、3人のなかからまず藤浪が1年夏からベンチ入り。秋からは澤田が加わり、平尾は2年春になってようやくベンチ入りを果たした。
2年夏は大阪大会決勝で敗れ甲子園出場を果たせず、彼らの代となった新チームがスタートした。その秋の大阪大会の投手登録は藤浪、澤田、平尾の3人のみ。今とは時代が違うとはいえ、投手を兼任できる野手もおらず、彼らへの信頼の高さが伝わってくる。
その初戦(阿武野)、先発の気配を感じたという平尾は、試合に向けて調整を続けていた。ところが、想像もしていなかった出来事が起きた。
「野球部の平尾、すぐ職員室へ来るように」
休み時間の校内放送で、監督の西谷浩一から呼びがかかった。「おまえ、なにやったんや?」と、クラスメイトの野球部員から冷やかされながら職員室へ急ぐと、思いもよらぬひと言が待っていた。
【選手をあきらめてマネージャーなら】
「なんかおまえな、入院せなあかんみたいやぞ」
じつは、春先の健康診断、尿検査で引っかかり6月に再検査を受けていた。そこでも再度要検査の判定。本来ならここで詳しく調べるべきだったが、夏の大会が迫っていたため、気になりながら通院を後回しとし、決勝で敗れた夏が終わったところで知り合いを通じ、再々検査。
尿を提出したところ、その結果が届いたのだった。判定は血尿やたんぱく尿などが現れる慢性糸球体腎炎の一種「IgA腎症」。放置するとのち透析治療が必要な腎不全へ移行する可能性もあるとされ、野球を含めた運動ができなくなることも......。予期しない展開にまったく頭がついていかなかったが、グラウンドへの復帰を諦める気持ちは微塵もわかなかった。
それからは母がデータを持っていくつかの病院を回った。するとそのなかで、薬をしっかりと飲み、頻繁に検査をしながら、徐々に体を動かしても数値が悪くならなければ......」と希望を口にする医師と出会い、そこからの紹介で以降は関西医科大学病院での治療を選択。初対面の日、担当の女医からはさまざまな聞き取りを受けたがピンとこなかったという
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