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藤浪晋太郎、澤田圭佑と強力三本柱を組むはずが... 大阪桐蔭の大型左腕を襲った病との闘い (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro

 平尾が言う「弦」とは、2012年の連覇時の主将である水本弦だ。水本と平尾の父がNTT北陸のチームメイトで、当時は両家族とも石川県の社宅で暮らしていた。平尾が5歳の時に父は現役を引退。一家は父の実家のある大阪に移り、やがて平尾は学童野球を始めることになる。

 父の遺伝子をしっかりと受け継いだのだろう。身長にも恵まれ、投手としても順調に成長していった。中学では、軟式野球部から東北高(宮城)に進み甲子園出場を果たした父に倣い、地元の軟式野球部に所属。

 すると、2年の頃から「大型左腕がいる」との評判が高校野球関係者の間に伝わり、3年時のある練習試合では145キロを計測したという噂が一気に広まり、その名は瞬く間に知られる存在となった。平尾自身は「さすがに145キロはスピードガンがおかしかったと思います」と笑い飛ばしたが、身長185センチの大型サウスポーは大きな魅力を秘めていた。全国から30校ほどの誘いを受けたが、平尾の気持ちは固まっていた。

「やっぱり、僕たちの時代は大阪桐蔭でした。小学生の時に辻内崇伸さん(元巨人)、平田良介さん(元中日)、1年に中田翔(元日本ハムほか)さんがいて、あの甲子園の夏はとにかく強烈で。さらに中田さんの代のあと、浅村栄斗さん(現・楽天)たちが全国制覇。僕が中学2年の時ですね。自分もこのレベルの高いチームでエースを張って、日本一になりたい。単純にそう思ったんです」

【西谷監督が思い描いた強力三本柱】

 大阪桐蔭に入学し、幼馴染の弦との再会を果たすも、周りのレベルの高さに圧倒された。監督の西谷浩一は、平尾についてこう語った。

「噂を聞いて見に行くと、ふつうの中学生ではまともに前に飛ばない。だから、誰が見てもいいのはわかったんですけど、軟式の子はそれほど見ていなかったので、どれくらいいいのかがわからなかった。それで知り合いの軟式関係者の人に聞くと、『間違いない。10年にひとりの逸材や』と言われて、『エースにせなあかん器か』と。あの時の投手陣については、四国からくる澤ちゃん(澤田)は使えるのはわかっていたんですけど、最終的には澤ちゃんと平尾、そして藤浪が化けてくれれば......。僕のなかではそんなイメージでした」

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