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【高校野球】今も色褪せぬ60年前の記憶 三池工が甲子園でつかんだ栄光と炭鉱の街を包んだ伝説の150キロパレード (2ページ目)

  • 内田勝治●文 text by Uchida Katsuharu

三池工の中庭に植樹されている月桂樹の説明文 photo by Uchida Katsuharu三池工の中庭に植樹されている月桂樹の説明文 photo by Uchida Katsuharuこの記事に関連する写真を見る 同校の中庭に植樹されている月桂樹も伝説のひとつだ。優勝パレードの際、人波から投げ込まれた苗を大切に育て、60年が経った今でも深緑の葉を茂らせている。その傍らに建つ「祝全国制覇」の文字が刻まれた記念碑とともに、その偉業を今に伝えている。

 月桂樹の花言葉は「勝利」「栄光」「栄誉」。夏の甲子園で優勝した工業高校は、今年で107回を数える夏の甲子園で三池工ただ一校しかいない(選抜は1968年春の大宮工のみ)。あの夏、三池工は花言葉が示すとおりの「栄誉」を手に入れたのだ。

【原貢監督の熱血指導】

 その伝統ある野球部の礎を築いたのが原貢監督だ。原辰徳さん(前巨人監督)の実父、菅野智之(オリオールズ)の祖父でもある貢さんは1959年、東洋高圧(現・三井化学)大牟田に勤務しながら、三池工の監督に就任。福岡でもまったくの無名校をゼロから叩き上げ、その6年後、28歳の若さで日本一監督へと上り詰めた。

 1965年夏の第47回大会は、銚子商(千葉)・木樽正明、高鍋(宮崎)・牧憲二郎、報徳学園(兵庫)・谷村智博と、のちにドラフト上位でプロ入りする右腕3人に注目が集まっていた。三池工は準々決勝で報徳学園を相手に延長10回、3対2でサヨナラ勝ちすると、決勝では銚子商を2対0と、ビッグ3の2投手を打ち崩しての栄冠は決してフロックではないだろう。

 攻撃野球を信条とするその打撃理論も、当時としては画期的だった。投手の球筋を見極めるために、前ではなく、捕手側へとボールを引きつけて打つ指導を徹底。自腹を切って選手一人ひとりに合わせた特注の木製バットを熊本の工場から取り寄せたほどだ。

 貢さんは東海大相模(神奈川)の監督として1970年夏には再び日本一に輝いた。相模野球の代名詞である「アグレッシブ・ベースボール」の原点は、三池工にあるといっても過言ではないだろう。

 境さんも直接面識はないながらも、原貢野球のDNAを受け継いでいるひとりだ。中学時代に在籍していた硬式野球チーム「高田ファイターズ」(福岡県みやま市)で当時監督を務めていた瀬口健さん(現・総監督)は、三池工優勝メンバーのひとり。準決勝の秋田戦では、満塁から走者一掃の逆転三塁打を放つなど、「2番二塁」でいぶし銀の活躍を見せた。

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