「あの時、志望届を提出していれば...」 大阪桐蔭で全国制覇を果たした天才打者はなぜプロに進まなかったのか? (2ページ目)

  • 内田勝治●文 text by Uchida Katsuharu

「正直やばいなと思いました。その時は先輩たちがいないので、優勝したという実感は湧きませんでしたが、次の日にはテレビで見た人たちが普通に寮にいるじゃないですか(笑)。同級生も中学で有名な選手がいっぱいいたので、『どえらいところに来てしまったな』と思いました」

 ただ、172センチと小柄ながらもセンスあふれる動きが西谷浩一監督の目に留まり、レギュラーメンバーが中心のAチームに抜擢された。シート打撃では、藤浪から逆方向の左中間に本塁打を叩き込んだこともある。1年夏のベンチ入りこそ叶わなかったが、甲子園では、翌年の中心選手が指名されるボールボーイの大役を務め、グラウンドレベルで春夏連覇の瞬間を体感した。

「藤浪さんから打ったことで、株が一気に上がったんだと思います。当時は足もそこそこ速かったですし、バッティングもよかったので、そこでアピールしていきました」

 高校ではそれまで未経験の二塁を任された。最初は「ゲッツーの取り方もわからなかった」というが、コーチとの居残り練習などで徹底的に鍛えられ、新チームでは背番号14ながら二塁のレギュラー格となり、秋の府大会を2位で通過すると、近畿大会で背番号4に昇格。4強入りを果たし、翌年センバツへの出場切符をたぐり寄せた。

 甲子園のデビューも鮮烈だった。2年春、遠軽(北海道)とのセンバツ初戦、初回の初打席で中堅へランニング本塁打を放つなど2安打2打点デビュー。同年夏の甲子園も出場し、明徳義塾(高知)との3回戦で好投手の岸潤一郎(西武)から、またも初回に中堅へ2季連続となるランニング本塁打をマークした。

「単打を意識して、基本はフライを上げないようにしていました。内角が苦手だったので、常に外の球ばかりを狙って逆方向に打っていました」

 決して大振りをせず、つなぎの意識を保てたのは、3番に主将の森友哉が控えていたからだ。同じ左打者で、身長もほとんど変わらないが、「別格すぎて、真似したらおかしくなっていたと思います」と真顔で言う。

「僕が中学の時にやっていた予告本塁打を、森さんは高校で、しかも公式戦の大事な場面でやるんです。ミート力もすごいし、バッティングに関してはすごすぎて参考になりませんでした」

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