【夏の甲子園奮闘記】鹿児島実・杉内俊哉は母の誕生日にノーヒット・ノーラン 松坂大輔とも投げ合った (2ページ目)
じつはもうひとつ、特別なご褒美もあった。
「記録を達成できたことはうれしいんですけど、この試合の日って母親の誕生日でもあったんですね。少しは恩返しができてよかったです」
【優勝候補・横浜と中盤まで互角】
この杉内の快投は、次の対戦相手である優勝候補筆頭の横浜にも強烈な警戒心を与えた。ある主力選手は「あのカーブは打てない」と脱帽していたほどだった。
杉内と投げ合うのは横浜の絶対的エース・松坂大輔。戦前から「左右のナンバーワン対決」と注目を浴びていた試合で、杉内はこのように覚悟を決めていたという。
「僕がなんとか0点で抑えて、味方が1点だけでも取ってくれれば勝つ可能性が出てくるかな? という気持ちでしたね。だから、初回から飛ばしましたよ。あんなに飛ばしたことがないって言うくらい飛ばしましたね」
0対0で迎えた6回。先頭バッターにフォアボールを許し、送りバントと盗塁で1アウト三塁とピンチを広げ、後藤武敏に先取点となる犠牲フライを打たれた時点で限界だった。
そして8回、横浜に3点を追加され、最後は松坂にとどめの2ランホームランを浴び万事休す。
「もうカーブは高く浮いていたし、ボールの抑えが利きませんでしたね。完全に疲労です。暑かったし」
ライバル対決を制して出場した大舞台で快挙を達成し、横綱相手に真っ向勝負を挑んだ。杉内の甲子園は、じつに濃密だった。
杉内俊哉(すぎうち・としや)/1980年10月30日、福岡県生まれ。鹿児島実業から三菱重工長崎を経て、2002年ドラフト3巡目でダイエー(現・ソフトバンク)に入団。03年に日本シリーズMVPに輝き、05年にはパ・リーグMVPと沢村賞を受賞した。11年オフにFAで巨人へ移籍し、12年に奪三振王に輝く。15年7月に右股関節痛を発症し、その後、一軍登板のないまま18年限りで現役を引退した。00年シドニー五輪、08年北京五輪、WBCで3度(06年、09年、13年)日本代表となる。19年から巨人のコーチに就任し、後進の指導にあたっている
著者プロフィール
田口元義 (たぐち・げんき)
1977年、福島県出身。元高校球児(3年間補欠)。雑誌編集者を経て、2003年からフリーライターとして活動する。雑誌やウェブサイトを中心に寄稿。著書に「負けてみろ。 聖光学院と斎藤智也の高校野球」(秀和システム刊)がある。
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