「高校で活躍してプロ野球選手に」の夢は入学すぐに断念 大阪桐蔭「藤浪世代」の控え捕手は「とんでもないところに来てしまった」 (5ページ目)
2012年、史上7校目の春夏連覇を達成した大阪桐蔭ナイン/写真は本人提供この記事に関連する写真を見る「甲子園は試合が始まったら、リリーフ投手はファウルグラウンドにあるブルペンで投球練習をするじゃないですか。澤ちゃんの時はいいんですけど、藤浪がブルペンで投げる時は嫌でしたね。よくブルペンでの投球が暴投になり、2ケタ番号のキャッチャーがフェアグラウンドに入ったボールを捕りに行って、試合が中断するシーンがあるじゃないですか。あれだけは絶対に嫌だったんです。だから藤浪が先発で澤ちゃんがリリーフの時はいいんですけど、センバツの浦和学院戦(準々決勝)と夏の済々黌戦(3回戦)は、澤ちゃんが先発で藤浪がリリーフ待機。この2試合はドキドキでした。だから、ファウルグラウンドでパイプ椅子に座っているボールボーイの下級生に『藤浪が投げる時は絶対に集中して、こっちを見といてくれ。オレが捕れんかった時は、飛びついてでも止めてくれ』と」
熱戦の傍らでのブルペン事情が浮かぶ思い出話だ。
春、夏の甲子園で残った森島の記録は、2試合に代打出場して2打数ノーヒット。試合でマスクを被ることはなかった。それでも変わらずブルペンで球を受け、チームを支え続けた。
春は17番、夏は12番を背に、甲子園のグラウンドに立ったブルペンキャッチャーに春夏連覇の経験は何を残したのだろう。
「社会人になって思うのは、連覇という結果以上に連覇へ挑戦する過程、この大切さです。センバツ優勝のあと、西谷先生から『今は頂点にいるけど、春の山と夏の山は別物。春の山を降りて、もう一回夏の山を登っていかんと頂点には立たれへんぞ』と言われたんです。その時はそうか......という感じだったんですけど、たとえば社会人になってひとつのプロジェクトに参加して、それをやり終えて、次の仕事になった時にここでもう一回しっかりゼロに戻ってつくっていくことの大切さがある。そんな時、春から夏に向かっていたあの時の気持ちや、練習を思い出すんです。連覇を達成できたのは、春の山をしっかり降り、一から夏の山をみんなで目指し、登りきったからだと思います。過程の大切さを学ばせてもらいました」
夏の決勝で勝利した瞬間、森島はマウンドで頭ひとつ抜けて仲間と抱き合う藤浪を目がけてベンチを飛び出した。澤田の肩に右手をかけながら満面の笑みで飛び跳ねるように駆け寄る写真がお気に入りだ。プレーヤーとして夢に破れ、現実に打ちのめされた男が"日本一のブルペンキャッチャー"となり、仲間と成し遂げた春夏連覇でもあった。
(文中敬称略)
著者プロフィール
谷上史朗 (たにがみ・しろう)
1969年生まれ、大阪府出身。高校時代を長崎で過ごした元球児。イベント会社勤務を経て30歳でライターに。『野球太郎』『ホームラン』(以上、廣済堂出版)などに寄稿。著書に『マー君と7つの白球物語』(ぱる出版)、『一徹 智辯和歌山 高嶋仁甲子園最多勝監督の葛藤と決断』(インプレス)。共著に『異能の球人』(日刊スポーツ出版社)ほか多数。
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