PL学園と帝京の名将が振り返る直接対決 中村順司「帝京はPLの弱点を狙わなかった」 前田三夫「やったところで勝てる相手じゃない、真っ向勝負ですよ」 (4ページ目)

  • 藤井利香●取材・文 text by Fujii Rika
  • 村上庄吾●撮影 photo by Murakami Shogo

●「引き際としてちょうどよかった」

中村 甲子園で勝つ監督というのはみんなすごいねぇ(笑)。PLの春夏連覇は選手一人ひとりが成長していった結果で、春7番だった片岡篤史が夏は4番だったし、1回戦から決勝まで全試合初回得点という記録もつくっています。

 この立役者は、帝京戦のスクイズで暴投しかけた伊藤なんです。本来下位を打つ選手でしたが、夏は途中から2番に上げて大活躍。卒業後は青山学院大で岩崎とバッテリーを組み、社会人野球でも将来監督になれたかもしれない男です。ですが、伊藤はALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病に侵され、46歳で亡くなってしまいました。

前田 本当につらい出来事でした。それにしても中村さんは監督就任後、甲子園20連勝。この1987年も甲子園負けなしだし、監督生活18年間で春夏通算58勝を挙げました。私は監督を50年続けましたが、46勝です。どう考えてもすごい数字、前人未到の大記録!

 いい選手がいたからって言う人もいるようですが、それだけでチームが勝てるほど高校野球は甘くありません。

ふたりの思い出話は尽きず、対談は3時間に及んだふたりの思い出話は尽きず、対談は3時間に及んだこの記事に関連する写真を見る中村 素直な選手が多かったと思うんですよ。前田さんはこの大会の2年後の夏に初優勝を飾るんでしたね。1995年夏には2度目の優勝で、この年はPLも同じく春夏両方に出場しています。春はお互い初戦敗退でしたが、夏は準々決勝まで進みました。福留(孝介)がいた時です。

前田 福留君は日本のプロ野球、またメジャーも経験して選手生命の長い選手でしたね。中村さんはその後、1998年のセンバツを最後に勇退されましたが、もし続けていたら間違いなくもっと勝っていたと思いますよ。

中村 選手たちは驚いていましたが、引き際としてちょうどよかったと思っています。本来は前年の夏でやめるつもりだったんですが、後任監督が決まらず半年間伸びたんです。最後の試合は、松坂(大輔)君のいた準決勝の横浜(神奈川)戦。

 不運なプレーが続いて負けてしまいましたが、夏はまた横浜と対戦し、その後すっかり有名になった延長17回の死闘を演じてくれました。私は外から見ていましたが、すごい試合をしてくれたなと感慨深かったですね。

中編<PL学園・中村順司と帝京・前田三夫が甲子園のベンチからにらみ合い「あれはなんだ?」「大変失礼なことをしました」>を読む

後編<「高校野球は変革の時。監督も勉強をし直す必要がある」PL学園元監督・中村順司と帝京名誉監督・前田三夫の指導論>を読む


【プロフィール】
中村順司 なかむら・じゅんじ 
1946年、福岡県生まれ。自身、PL学園高(大阪)で2年の時に春のセンバツ甲子園に控え野手として出場。卒業後、名古屋商科大、社会人・キャタピラー三菱でプレー。1976年にPL学園のコーチとなり、1980年秋に監督就任。1998年のセンバツを最後に勇退するまでの18年間で春夏16回の甲子園出場を果たし、優勝は春夏各3回、準優勝は春夏各1回。1999年から母校の名古屋商科大の監督、2015〜2018年には同大の総監督を務めた。


前田三夫 まえだ・みつお 
1949年、千葉県生まれ。木更津中央高(現・木更津総合高)卒業後、帝京大に進学。卒業を前にした1972年、帝京高野球部監督に就任。1978年、第50回センバツで甲子園初出場を果たし、以降、甲子園に春14回、夏12回出場。うち優勝は夏2回、春1回。準優勝は春2回。帝京高を全国レベルの強豪校に育て、プロに送り出した教え子も多数。2021年夏を最後に勇退。現在は同校で名誉監督を務めている。

プロフィール

  • 藤井利香

    藤井利香 (ふじい・りか)

    フリーライター。東京都出身。ラグビー専門誌の編集部を経て、独立。高校野球、プロ野球、バレーボールなどスポーツ関連の取材をする一方で、芸能人から一般人までさまざまな分野で生きる人々を多数取材。著書に指導者にスポットを当てた『監督と甲子園』シリーズ、『幻のバイブル』『小山台野球班の記録』(いずれも日刊スポーツ出版社)など。帝京高野球部名誉監督の前田三夫氏の著書『鬼軍曹の歩いた道』(ごま書房新書)では、編集・構成を担当している。

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