大阪桐蔭の「絶対に負けられない戦い」は乱闘寸前の遺恨試合になった (5ページ目)
理解者はほかにもいた。当時、校長を務めていた森山信一の存在も「負けられないと思えた」と玉山は言った。
森山は毎日練習に顔を出し、試合も時間が許す限り応援にきた。玉山は主将となってから森山とは個人的に話す機会も多く、そのたびに「おまえらの代で大阪桐蔭を勝てるチームにしてくれ」と頼まれ、玉山も「任せてください!」と約束を交わしていた。
「センバツが終わってからチームの雰囲気が悪くなった時も、『俺にできることがあったら何でも言ってくれ。その代わり、チームを立て直してくれ』とか、何度も励ましてくれました。校長との約束ということは、学校とも約束したってことやないですか。だから、弱気にならず『なんとしても優勝せな!』と突っ走れたんやと思います」
主将の玉山を旗頭に大阪桐蔭という"看板"を背負った野球部。この北陽戦をきっかけに「力で圧倒する」というチーム本来の野球を取り戻していく。夏の大阪初制覇へ、機運は高まっていった。
つづく
(文中敬称略)
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