大阪桐蔭の「絶対に負けられない戦い」は乱闘寸前の遺恨試合になった
1991年の大阪桐蔭の主将である玉山雅一は「僕らの時代から(大阪桐蔭は)選手を尊重している」と言った。とくに玉山の代の選手たちは、自我を前面に出す傾向が強かった。
試合になれば相手を野次ることもあり、審判の判定に対し露骨に不満顔を見せることも珍しくはなかった。監督の長澤和雄は、そんな奔放なチームを上から押さえつけることはしなかった。
「『相手を野次るくらいやったら、もうちょっと味方を鼓舞するような声を出さんか?』というような感じで言ったりはしましたけどね。あのチームは、打ちのめすような言い方をしたらダメです。大事な個性が失われますから」
主将の玉山雅一を筆頭に、個性的なメンバーが揃っていた当時の大阪桐蔭 この頃の高校野球は「マナー」に対して、比較的寛容なところがあった。そんな風潮においても、大阪桐蔭の選手たちの血気盛んな振る舞いは目立っていたというが、部長の森岡正晃もチームの気質を損なわないよう、新チームが始動してからこう説き続けてきた。
「相手を力で圧倒するくらいじゃないと、接戦になればなるほど厳しい試合になる。おまえたち自身で優位に立てる野球を確立しよう」
和田友貴彦と背尾伊洋の2枚看板に井上大と萩原誠を中心とした強力打線。初の甲子園となるセンバツ出場を実現させた背景には、こうした要素も少なからず存在していた。
センバツでの敗戦後、チームは一時どん底に落ちた。そこから、コミュニケーションを重ねることで意思の疎通を深め、「一戦必勝で戦っていこう」と冷静さを取り戻した。
夏の大阪府大会。春季大会を制した上宮と並び「優勝候補」に挙げられていた大阪桐蔭は、初戦で磯島を8対1の7回コールドで破ると、2回戦も門真西を7対1と危なげなく退けた。そして3回戦で最初の難関と目された北陽(現・関大北陽)戦を迎えた。
この相手とは因縁があった。
前年夏、その年のセンバツでベスト4に進出した強豪と5回戦で対戦した大阪桐蔭は、相手エースの寺前正雄(元近鉄など)に手も足も出なかった。安打は萩原と代打で出場した元谷哲也の2本のみで、0対5と完敗を喫した。
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