大阪桐蔭の「絶対に負けられない戦い」は乱闘寸前の遺恨試合になった (3ページ目)
「低い」と見逃したボールを、ストライクとコールされ2ストライク。そして「前より少し低いから、今度こそボールや」と見送ったボールもストライクと判定された。不本意な三振に、玉山が憤慨する。
「それはないやろ!」
悪態をつくようにバットを投げる。それだけでもマナーの悪さを咎められかねないが、不運にもその先に審判がいた。自分では「ただ放り投げた」つもりが、結果的に「審判に投げた」と見なされてしまったのである。
再び監督と部長が主審に呼ばれ、叱責された。森岡が困った様子で述懐する。
「ジャッジが不服なら『今のストライクは(いっぱいの)高さですか?』とか丁寧に聞いて、次の打席に生かすようにしようと選手には伝えていたんですけど......。まあ、高校生には難しかったのかもしれないですね」
たしかに、選手たちは過剰なまでに熱さを出した。ただ、冷静さを失ったわけではなかった。
執拗なインコース攻めでもわかるように、北陽には強気なプレーで応戦されていた。走塁にしても同様だった。今でこそ禁止されているが、当時はダブルプレーの際、相手の送球を遅らせるためにあえてセカンドのベースカバーに入った選手に向かってスライディングすることも、戦略のひとつと考えられていた。
「まるで『スクール☆ウォーズ』みたいな試合でしたからね」
80年代に一世を風靡した学園ドラマに喩えながら、元谷が苦笑いする。ただショートを守る元谷は、相手のプレッシャーにも動じずプレーを成立させていた。背景として、日々の練習によって、セカンドの澤村と意思の疎通が図れていたからだと元谷は言う。
「普段のノックから、相手がスライディングしてくるだろうと想定している幅をさらに越えてスローイングしたり、わざと体勢を崩しながら投げたりしていましたから。そこは澤村と、あらゆる状況を考えて『このあたりに投げてくれたほうが捕りやすい』『こういうスライディングをしてきたら、このへんに投げてくれ』と、いつも話していましたから。僕と澤村は、どこにも負けない二遊間コンビやったと思いますよ」
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