甲子園で773球→投手生命に終止符。大野倫は強打者としてプロへ進んだ (4ページ目)

  • 広尾晃●文 text by Hiroo Koh
  • photo by Kyodo News

「決勝はさすがにもうどうにもならなかった。バッティングピッチャーみたいでした。球速は120キロも出ていなかったと思います。相手の大阪桐蔭には背尾伊洋(近鉄、巨人)、和田友貴彦とふたりの投手がいました。前年の決勝で当たった天理(奈良)にも南竜次(日本ハム)、と谷口功一(巨人、西武、近鉄)というふたりの投手がいた。当時でも、強豪校は二枚看板が多かった。沖縄水産にももうひとり投手がいたら、結果は違っていたと思います」

 2年続けて準優勝に終わったが、県民は地元に戻ってきた沖縄水産ナインを大歓声で迎えた。主将の屋良景太は、帰宅後に閉会式のビデオを見て、グラウンドを行進する大野の右ひじが不自然な方向にねじ曲がっていることに気づいた。この時、チームメイトははじめて、大野の右ひじが深刻な状態であることを知った。

 沖縄に戻り検査を受けた大野は、「右ひじの剥離骨折」と診断された。亀裂も入っており、軟骨も欠けて、ビー玉くらいの骨片も見つかった。医師からは「このひじの状態ではピッチャーは無理だろうね」と言われた。こうして大野の"投手生命"は終わった。

 大野が故障しながらも決勝まで投げ続け、疲労骨折していたことは新聞でも大きく取り上げられた。当時の日本高等学校野球連盟会長の牧野直隆はこれを問題視し、「甲子園で球児が前途を断たれるようなことがあってはならない」と、医療体制の整備を指示した。

 1994年の春の甲子園から、大阪大学整形外科チームが大会前に出場校の投手の肩、ひじの診察を行なうことになった。大野は今に続く"高校野球のメディカルチェック"のきっかけとなった。そういう意味で、高校野球史に残る存在だったと言えよう。

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