2019.09.01

履正社の日本一で始まる新2強物語。
真の王者へ「ある勝利」が必要だ

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Okazawa Katsuro

 履正社が初の日本一を決めた翌日、学校の最寄り駅である阪急・曽根駅(大阪府豊中市)には優勝を祝うボードが華やかに飾られていた。かつて履正社は福島商業という名で、ヤンチャな兄ちゃんたちが通う男子校だった。1983年に履正社に改称し、2000年に男女共学となった。今ではスポーツだけでなく勉学でも成果をあげ、朝の通学路は運動が得意そうな恰幅のいい生徒と、聡明な雰囲気を漂わせる進学クラスの生徒が入り混じり賑わう。

今年夏の甲子園で初の日本一に輝いた履正社 履正社野球部が初めて甲子園出場を果たしたのが、1997年の夏。当時は専用グラウンドを持たず、内野分の大きさしかない校庭でひたすらノック、バント、走塁練習を繰り返していた。試合でも走者が出れば、迷わずバント。クリーンアップだろうが、追い込まれようが、1アウトだろうが、とにかくバント。

 その時は、大阪大会7試合でチーム打率.268、本塁打0本ながら、犠打はなんと30を記録。数少ないチャンスを確実にものにし、勝ち上がっていった。関大一との決勝でも、1点ビハインドからスクイズで追いつき、スクイズで勝ち越した。この1点を、体重60キロに満たない華奢なエース・小川仁が守り切っての大阪大会初制覇だった。

「チーム打率2割台のチームが甲子園なんて夢のよう」

 翌日の新聞で目にした岡田龍生監督の言葉は、今でも記憶に残っている。甲子園では初戦で敗れたが、その後も戦いのスタイルは変わらず、大阪では「バントの履正社」の名が定着していった。

 そんなチームが101回目の夏、「強打の履正社」に様変わりし、ついに全国の頂点を極めたのだ。この夏の甲子園での戦いをあらためて振り返ると、履正社は鈴木寛人(霞ケ浦)、前佑囲斗(まえ・ゆいと/津田学園)、中森俊介(明石商)、奥川恭伸(星稜)といった評判の高い投手との対戦が続いた。

そんななか、初戦(霞ケ浦戦)でいきなり大会タイ記録となる1試合5本塁打を放つと、その後も強打は衰えることなく、気がつけば史上7校目の6試合連続2ケタ安打を記録。センバツ初戦で3安打、17奪三振に抑え込まれた星稜・奥川を、夏の甲子園決勝という舞台でリベンジするという出来すぎとも思えるストーリーを完結させた。