クロマティに殴られた男・宮下昌己が語る地元中学の同級生・荒木大輔 (4ページ目)

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro

 中学時代に大輔のストイックさを見ていましたから、このままずっと勝ち続けて、当然プロに行くだろうと思っていました。

 大輔は高校3年の夏までに5回も甲子園に出ましたが、そのころの東京の高校が弱かったわけじゃない。まぐれでも何でもなく、実力です。それも、8割、9割は大輔の力じゃないですか。確かに早実にはいい選手が揃っていましたけど、彼の力があってこそだと思います。  

 オレは3年間で一度も甲子園に出ることはできませんでした。大輔は5回出ているから、「5回もあるんだから、1回くらい分けてくれればいいじゃないか」と本気で思いましたよ。「欲しがるなあ」と。高校野球は強いチームが勝てるとは限らないのに、すべての予選や大会を勝ち進んで5回も甲子園に出るなんて、本当に夢物語ですよ。

 荒木から遠く離されていた宮下も日大三で少しずつ力をつけていった。高校時代に対戦することはなかったが、荒木がヤクルトスワローズと読売ジャイアンツから1位指名を受けた1982年ドラフト会議で、宮下は中日ドラゴンズから6位で指名された。

 オレも「いずれは大輔と肩を並べたい」という気持ちがありました。どうすれば近づけるかと考えて出た答えは、「ストレートのスピードを上げるしかない」ということ。彼のコントロール、投球術、マウンドさばきには、どう頑張ってもかなわない。そのあたりは、センスと言うしかありません。

「大輔に力勝負では負けない」という思いを胸に、それを追い求めていました。高校3年の春にはそこそこ体ができてきて、遠投は120m~130mくらいまで距離が伸び、平均で140kmくらいのストレートが投げられるようになりました。

 次第にコントロールもついてきて、いつからか「高校を卒業してからも野球を続けられたらいいな」と考えるようになりました。変化球はまだまだで、1試合で投げても10球くらいでしたが、ストレートだけで抑えられるようになりましたからね。

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