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レジェンド高橋尚子、幻に終わった「マラソン世界記録更新翌週のレース出場」「直前にNGが出て...その日は泣きながら20km走りました」 (3ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【小出監督のもとを離れての最後の挑戦】

 翌2005年5月、高橋は大きな決断をした。小出監督との11年間の師弟関係に終止符を打ち、「チームQ」で活動することを決め、ふたり揃っての記者会見を行なった。

「その頃は(思うように走れず)うだうだしていて、監督は『まだ(焦らなくて)いいよ』と言ってくれるんですが、私ももう33歳でしたし、いつまで陸上ができるかわからない。ぬるま湯につかっている感じで、このままだと次に進めないという危機感が大きかったです。

 だから、監督から手を差し伸べてもらえないところに自分を置かないと踏み出していけない。それに、チーム(小出監督が率いる佐倉アスリートクラブ)には20名ぐらい選手がいたんですけど、監督は私とマンツーマンみたいな感じでした。いつまでも監督をひとり占めしているわけにはいかない。そう思って、小出監督のもとを卒業することを決めました」

 チームQとして活動を始めたその年の11月、東京国際女子マラソンに出場。2年ぶりの復帰戦を見事、優勝で飾り、健在ぶりをアピール。2008年北京五輪に向けてリスタートした。そうして迎えた20083月、五輪の代表選考レースである名古屋国際女子マラソンに出場するも、スローペースの難しいレースになり、高橋は27位と惨敗。

「この時は、直前に中国で合宿していたんですが、下痢が続いて、40度ぐらいの高熱が出たりもして1カ月ほど体調不良が続きました。帰国して快復したと思ったのですが、体の芯にダメージが残っていたんでしょうね。スタートして7kmぐらいから腹痛が出て、その痛みと戦うだけでレースが終わってしまった感じでした」

 レース後、高橋は「やっちゃいました。でも、これが私の実力です」とコメントを残した。金メダルを獲得したシドニー五輪以降、長く続けてきた二度目の五輪出場への挑戦は終わりを告げた。

 翌2009年3月、すでに現役引退を表明していた高橋は、前年に悔しさを噛みしめた名古屋国際女子マラソンを最後の舞台に選んだ。記録を目指すのではなく、一般参加で沿道の声援に笑顔で応えながら、2時間5223秒で完走した。その後はスポーツキャスターの他、マラソンや駅伝の解説、市民マラソン大会のゲストなど、精力的に活動を続けている。

 高橋はマラソンを走ると決めた日から今まで、なぜ走ってきたのだろうか。

「楽しいからです。私の財産は金メダルではなく、それを通じていろいろな人に出会えたこと。それは走らないと得られないものでした。『楽しい』が私の原点なのです。現役の時、つらい練習が終わっても、最後に『探検ラン』と称した遊びの4060分ジョギングをしていました。走るのが楽しいという原点回帰を毎日することができたのが、よかったのだと思います。今は走ることが仕事ではないですが、走るのが大好きという気持ちは変わらず続いています」

(終わり。文中敬称略)

高橋尚子(たかはし・なおこ)/1972年生まれ、岐阜市出身。県岐阜商業高校から大阪学院大学に進み、卒業後に小出義雄監督率いるリクルートに入社。1997年に積水化学へ移り、二度目のマラソンとなる1998年名古屋国際女子マラソンで日本記録を更新して初優勝。同年のアジア大会ではスタート直後から独走し、自身の持つ日本記録を4分以上も更新。2000年シドニー五輪で金メダルを獲得し、国民栄誉賞を受賞。2001年ベルリンマラソンで2時間1946秒の世界記録(当時)を樹立。2008年に引退。現在はスポーツキャスター、市民マラソンのゲストなどの普及活動に精力的に取り組んでいる。

著者プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。近著に「箱根5区」(徳間書店)。

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