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レジェンド高橋尚子、幻に終わった「マラソン世界記録更新翌週のレース出場」「直前にNGが出て...その日は泣きながら20km走りました」 (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【アテネ五輪の女子マラソンはテレビ観戦】

 五輪最短切符をつかむ舞台であるパリ世界陸上への道は絶たれたが、アテネ五輪への道は絶たれたわけではない。高橋は翌200311月、五輪選考レースのひとつである東京国際女子マラソンに出場した。

 当日の気温は24度。11月の平均よりかなり暑い、難しいコンディションだった。それでも、調子のよさを感じていた高橋はスタートから飛び出し、そのまま先頭でレースを展開。だが、30km過ぎに失速、エルフェネッシュ・アレム(エチオピア)に敗れて2位(2時間2721秒)になり、マラソンでは6年10カ月ぶりの敗戦を喫した。

「レース前の練習を完璧にこなし、最高の状態に仕上がっていたのでいけるだろうと、変に浮き足立っているところがありました。もうちょっとレースに対して慎重、緻密にやらないといけなかったんですが、本当に調子がよくて、監督からも『すごいの出してやれ』と言われて、イケイケどんどんみたいな感じになってしまって......。たぶん私も含めて、チームのみんなも"ないもの"を数えてしまっていたんだと思います」

 高橋が東京で勝てなかったことで、アテネ五輪の女子マラソン代表選手選考は難航した。パリ世界陸上で銀メダルを獲得した野口みずき(グローバリー)がすでに内定。残る2枠を、大阪国際女子マラソンを2時間2529秒で優勝した坂本直子(天満屋)と、名古屋国際女子マラソンを2時間2357秒で優勝した土佐礼子(三井住友海上)と、そのふたりを実績で大きく上回る高橋が争う形となった。

 選考基準が不明瞭だったため議論を呼んだが、最終的に高橋は選出されず、2大会連続メダル獲得の夢は潰えた。

「選ばれなかった時は、監督に申し訳ないという気持ちが一番大きかったです。東京の結果を受けて、翌年3月の名古屋を走る選択肢もあったんですが、11月に東京を走り、さらに3月に代表に選ばれるためだけにすべてをかけて名古屋を走り、8月にアテネとなると、本来狙うべき本番で(いい状態で)走れなくなる可能性があり、それでは意味がないと思ったんです。

 それで名古屋を回避したんですが、その選択と決断をしたのは私ですし、選考理由も理解できたので、そんなに(気持ちを)引きずることはなかったです」

 アテネ五輪の女子マラソンはテレビ観戦した。30km過ぎにはシャンパンを用意し、野口が優勝した瞬間に皆で乾杯をした。シドニーから日本の金メダルがつながったと思うと自分のことのようにうれしかった。ただ、この2004年、高橋は故障続きでマラソンを一度も走れなかった。

「それでも、この年は一番うれし涙を流したんです。多くの方から励ましのお手紙をいただいて、メディアの皆さんも温かい言葉をかけてくれて、こんな私でも応援してくれるんだと思うと、涙が止まらなくて......。ケガもあって走れなくて、陸上選手としてはダメな1年でしたが、人としては人の温かさを感じることができて、すごくうれしい、人として成長できた1年でした」

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