日本男子マラソン黄金時代を牽引した瀬古利彦の後悔「五輪のメダルは欲しかった。あとの祭りですけどね」 (5ページ目)
【走ると現役時代のつらかったことを思い出す】
その後、瀬古は実業団や大学の指導者を経て、2016年に陸連のマラソン強化戦略プロジェクトリーダーに就任。自身が味わった苦い経験を生かして、代表選考のシステムでもあるMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)を立ち上げ、解説者としての活動、さらに各地で開催される市民マラソンにもゲストとして招待されている。ただ、自らが走ることはない。
「マラソンの大会で走ると、現役当時のつらかったことを思い出すんです。今でも夢のなかで中村監督に『お前、体重が増えて太ったな』と言われますからね(苦笑)。もう十分にやりきりました」
現役時代の瀬古は、なぜ走り続けられたのだろうか。
「走ることが好きでしたし、走ることしかできないから。自分から走ることを取ったら何も残らない。ただの人なので走る仕事があってよかったなと思いますね。五輪(のメダル)には縁がなかったけど、それが自分の実力ですから。でも、メダルは欲しかったですね。それはQちゃん(高橋尚子)を見て、あらためてそう思いました。金メダルを取ると輝き続けられるんだなって(笑)。あとの祭りですけどね」
(おわり。文中敬称略)
瀬古利彦(せこ・としひこ)/1956年生まれ、三重県桑名市出身。四日市工業高校から本格的に陸上を始め、インターハイでは800m、1500mで2年連続二冠を達成。早稲田大学へ進み、箱根駅伝では4年連続「花の2区」を走り、3、4年時には区間新記録を更新。トラック、駅伝のみならず、大学時代からマラソンで活躍し、エスビー食品時代を含めて、福岡国際、ボストン、ロンドン、シカゴなど国内外の大会での戦績は15戦10勝。無類の強さを誇った。五輪には1984年ロサンゼルス大会(14位)、1988年ソウル大会(9位)と二度出場。引退後は指導者の道に進み、2016年より日本陸上競技連盟の強化委員会マラソン強化戦略プロジェクトリーダー(マラソンリーダー)に就任。MGC(マラソングランドチャンピオンシップ)を設立し、成功に導いた。自己ベスト記録は2時間08分27秒(1986年シカゴ)
著者プロフィール
佐藤 俊 (さとう・しゅん)
1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。近著に「箱根5区」(徳間書店)。
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