日本男子マラソン黄金時代を牽引した瀬古利彦の後悔「五輪のメダルは欲しかった。あとの祭りですけどね」 (3ページ目)
【自宅にカミソリ入りの封筒が届いた】
瀬古がライバル視していた宗兄弟をはじめ、谷口浩美や森下広一らに勢いがあった。だが、瀬古が一番脅威に感じていたのが中山竹通だった。
「(1986年の)アジア大会で(レース序盤から独走して優勝した)中山君を見た時、『この選手はすごい。彼に勝つのは無理だ』と思いました。次の(1988年ソウル)五輪に行くにはこんなすごい選手と戦わないといけないのかと思うと不安になりました」
そのソウル五輪の代表選考について、日本陸連は福岡国際マラソン、東京国際マラソン、びわ湖毎日マラソンの3つを対象レースにしていた。だが、瀬古、中山、宗兄弟、日本記録保持者の児玉泰介、同2位の伊藤国光、さらに谷口、新宅雅也ら世界で戦えるサブテンランナー(2時間10分以内)が多数いたため、現場の指導者、選手の申し合わせにより、福岡国際で事実上の一発勝負をすることになった。
瀬古も出場予定でいたが、4月のボストンマラソン後に欧州トラック遠征に行った際、10000mのレースで人生初の途中棄権をするなど、調子が上がらず、しかも直前で腓骨剥離骨折が判明した。
「オーバートレーニング症候群みたいになってしまって体が動かない。でも、福岡に向けて練習をしないといけない。出ると言った以上、出ないといけないと思っていたけど、とても走れる状態じゃなかった」
瀬古は、福岡の出場辞退を決めた後、翌1988年3月のびわ湖毎日マラソンに出場した。
「1月から練習してぎりぎり間に合った。でも、暑くて途中で脱水症状になり、タイムは2時間12分41秒。自分らしくない平凡なタイムで周囲を納得させることができない優勝だったので、これは(ソウル五輪は)ダメだなと思ったのですが、周囲からは前向きな発言をしてくれと言われていました」
この結果をもって瀬古は、福岡国際を制した中山、2位だった新宅とともにソウル五輪のマラソン代表に選出されるが、陸連による「瀬古救済」ではないかという批判の声が上がった。瀬古が練習で走っていると、自転車に乗った人に「バカヤロー」と言われ、自宅にも「今から殴りに行く」と脅迫電話がかかってきたり、カミソリの入った封筒が届いたりした。
「自分は皆さんが喜ぶ形で選出されていないんだなって思いましたね。(10月の)ソウル五輪は近づいてきたけど、6月くらいまではまったく気持ちが乗らなくて、なんか体の中が空っぽになっていたんです。それでもやらないといけないと思い、練習を始めたら石を踏んで捻挫したんですよ。それから7月半ばまで炎症がひどく、ほとんど走れなかった」
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