検索

日本男子マラソン黄金時代を牽引した瀬古利彦の後悔「五輪のメダルは欲しかった。あとの祭りですけどね」 (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【夜中に寝ながら腹筋をしていたことも】

 足の故障は徐々に回復してきたが、中村監督が亡くなる前から瀬古はマラソンを走ることに「つらさ」を感じていた。マラソンをやればやるほどマラソンについて詳しくなり、練習をどのくらいやらないといけないのか理解できるので、それをやらないと不安になった。また、ライバル選手が車や自転車を使用せずに生活していると聞くと、瀬古もエスカレーターやエレベーターに乗らなくなった。日常生活もどんどん窮屈になっていった。

「五輪が近づけば、周囲の選手に負けられないと思うし、期待されると負けるわけにはいかないじゃないですか。練習が終わると宗兄弟(茂、猛)や中山(竹通)君の顔が浮かび、どんな練習をしているのかとかよく考えていました。家内が言うには、夜中に寝ながら腹筋をしていたこともあったそうです。シューズも特別に作ってもらっていたので、玄関ではなく、枕元に置いて寝ていました。そのくらい勝ちたいという気持ちが強かったんだと思います」

 そうして迎えた1986年4月のロンドンマラソン、ロス五輪以来のマラソン復帰を優勝で飾ると、続く10月のシカゴマラソンでは2時間08分27秒の自己ベストで日本人初優勝。翌1987年4月のボストンマラソンでも自身二度目の優勝を果たし、海外マラソンで3連勝と瀬古は完全に復活した。

「ロス五輪は残念な結果だったけど、それを払拭する自信みたいなものを取り戻せた感がありました。結婚しましたし、子どももできたので、かっこいいところを見せたい、出たレースは意地でも勝ってやると思っていました。そういう気持ちにさせてくれたのは、日本に強い選手がたくさん出てきたのも大きかったです。この頃は日本の男子マラソンが世界をリードしていたので、多くの人に注目されていました。日本の男子マラソンの黄金時代だったと思います」

2 / 5

キーワード

このページのトップに戻る