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1984年ロス五輪直前、金メダル候補の瀬古利彦は血尿を出し、泣きながら電話した母親からは「死んだらあかんよ」と言われた

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

調整に苦しんだ1984年ロス五輪、大きな期待を集めながら14位に終わった photo by Jiji Press Photo調整に苦しんだ1984年ロス五輪、大きな期待を集めながら14位に終わった photo by Jiji Press Photo

【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.3

瀬古利彦さん(中編)

 陸上競技のなかでもひときわ高い人気と注目度を誇るマラソン。五輪の大舞台で世界の強豪としのぎを削った、個性豊かな日本人選手たちのドラマは、時代を越えて人々の心を揺さぶる。

 そんなレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。今回はマラソン戦績15戦10勝と無類の強さを誇った瀬古利彦さん。全3回のインタビュー中編は、出場が幻に終わった1980年モスクワ五輪の悔しさを乗り越え、金メダル候補として迎えることになった1984年ロサンゼルス五輪について振り返ってもらった。失意のうちに終わったレースの裏には壮絶なドラマがあった。

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【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶

【ケガをすると大好きなビールが飲めない】

 1980年のモスクワ五輪、日本はボイコットを決めた。早稲田大を卒業し、エスビー食品に入社したばかりだったマラソン代表の瀬古利彦は「五輪で走る」という夢を断たれた。それでも瀬古は気持ちを切り替え、翌年4月のボストンマラソンに出場し、2時間09分26秒の大会新記録で優勝した。

 だが、この後、トラック種目での欧州遠征中にヒザを痛め、長期にわたりレースから遠ざかることになった。

「故障して走れなくなったんですけど、それまで5年間、大学1年の時からずっと頑張ってきたので、これでようやく休めると思うと、なんかうれしかったんですよね。このまま4年後のロサンゼルス五輪まで走り続けるとなると、正直しんどいなと。ただ、意外とケガ(の症状)が重かったんです」

 ケガは、ちょっとよくなって走ると、また痛みが出てくる。その繰り返し。どんどん月日は過ぎ、年が明けても状態はよくならなかった。

「最初は休めていいなって思っていたけど、やっぱりケガはダメですね。私は、走ること以外、やりたいことが特にないのでヒマだし、走っていないので(体重管理のために)大好きなビールも飲めない。私は酒好きなので、飲めないとつまらないんですよ。やっぱりマラソン選手は走らなきゃと思いました」

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著者プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。近著に「箱根5区」(徳間書店)。

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