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1984年ロス五輪直前、金メダル候補の瀬古利彦は血尿を出し、泣きながら電話した母親からは「死んだらあかんよ」と言われた (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【相談のできる友人はいなかった】

 当時の瀬古は、指導を受ける中村清監督の自宅の隣のアパートに住んでいた。

「本当は監督の家から離れた場所に住みたかったのですが、たまたま隣のアパートに空きが出たので、『お前、そこに入れ』と言われたんです。そこから監視の日々ですよ。自由にどこかに行くのはもちろん、ケガをした時に三重の実家に帰るのもダメでした。毎日、監督の家でご飯を食べていたのですが、だんだんそういうのが重荷になってきたんです。ありがたい話ですけど、もう自分もいい大人ですから、もう少し自由にさせてほしいと思っていたのですが、言えなかった」

 中村監督からすれば、故障中の選手が実家に戻れば、練習ができないうえに食べすぎてしまうのでコンディションの管理が難しい。1984年に開催されるロサンゼルス五輪は、瀬古が年齢的に一番いい時期に走ることができるので、そのチャンスを逃したくない気持ちが強く、常に自分の目の届くところに置いておきたかったのだろう。

 瀬古はそんな苦しい時間を過ごしながらも、1983年に入り、見事な復活を遂げる。2月に1年10カ月ぶりのマラソン復帰レースとして東京国際マラソンに出場すると、日本人初の2時間8分台となる2時間08分38秒の日本新記録で優勝。そして、次のターゲットは12月の福岡国際マラソン。翌年に迫ったロス五輪の選考レースに指定されていたからだ。

「(ケガの痛みがなくなり)走れるのが楽しかったですし、うれしかったですね。大学に入った頃のようにフレッシュな気持ちで走ることができたし、走りたいと思うようになったので、きつい練習も楽しく感じられました(笑)」

 その年の福岡国際マラソンには、瀬古の他、宗兄弟(茂、猛)、ジュマ・イカンガ-(タンザニア)、当時世界最高記録を保持していたアルベルト・サラザール(アメリカ)ら世界の強豪が顔を揃えた。瀬古は40kmまで息をひそめていたが、そこからイカンガ-と一騎打ちになり、トラックの残り100mでスパートし、優勝した。大レースに強い瀬古はロス五輪の金メダル候補と期待を集めた。

「ケガから復活して優勝して、ここまではよかったんです。ただ、ここからロス五輪に向けて練習を始めたんですけど、調子がまったく上がらない。監督の機嫌もすこぶる悪くて、取材に来たテレビ局の記者にいつも怒鳴っていましたからね。私もなんか変な状況だなって思いながら走っていました。一生懸命やっているのにうまくいかない。どうしたらいいんだろう。今みたいに友人とかに聞ければいいけど、当時は監督に友人も作っちゃいけないと言われていたので、話ができる友人がいなかったんです」

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