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1984年ロス五輪直前、金メダル候補の瀬古利彦は血尿を出し、泣きながら電話した母親からは「死んだらあかんよ」と言われた (4ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【「もう数カ月早くおふくろに泣いて電話しておけばよかった」】

 レース当日、瀬古は「ケツをまくったので、ダメでもいいから走る」と覚悟を決めていた。スタートから先頭集団に入り、15kmまではラクに走ることができた。25kmを過ぎると、調整ミスのせいか、脚に疲労を感じた。それでも歯を食いしばって先頭についていったが、勝負の35kmから徐々に遅れていった。瀬古は疲労困憊の表情でゴールし、14位に終わった。

「レースをスタートした時、すごくラクに走れたので、もう数カ月早くおふくろに泣いて電話しておけばよかったなと思いましたね(苦笑)。ロスのレースの映像は、怖くて見られなかったです。だって自分が負けるのを見るのは嫌ですし、それを見るとあの時の苦しい1年間を思い出すじゃないですか。私はもう二度とあんな苦しいところに戻りたくないと思っていたので、見る気にならなかったんです」

 瀬古がロス五輪のマラソンに敗れた夜、新宿の歌舞伎町には落語家の三遊亭楽太郎(後の六代目・三遊亭円楽/故人)が現われた。楽太郎は瀬古のそっくりさんとしても知られ、人気を博していたが、この時は日本代表のユニフォームを模したものを着て、帽子のつばをうしろにしてかぶっていた。

「瀬古利彦、皆さんの期待に応えられず、すいませんでした」

 そう言って、何度も頭を下げた。

「本当は私が謝らなくてはいけないんですけど、楽太郎さんが先に日本で謝ってくれた。これはありがたかったけど、申し訳ない気持ちもあり、複雑でした」

 苦しんだオリンピックから解放され、帰国した瀬古は人生において大きな転機を迎えることになる。

(つづく。文中敬称略)

瀬古利彦(せこ・としひこ)/1956年生まれ、三重県桑名市出身。四日市工業高校から本格的に陸上を始め、インターハイでは800m1500mで2年連続二冠を達成。早稲田大学へ進み、箱根駅伝では4年連続「花の2区」を走り、3、4年時には区間新記録を更新。トラック、駅伝のみならず、大学時代からマラソンで活躍し、エスビー食品時代を含めて、福岡国際、ボストン、ロンドン、シカゴなど国内外の大会での戦績は1510勝。無類の強さを誇った。五輪には1984年ロサンゼルス大会(14位)、1988年ソウル大会(9位)と二度出場。引退後は指導者の道に進み、2016年より日本陸上競技連盟の強化委員会マラソン強化戦略プロジェクトリーダー(マラソンリーダー)に就任。MGC(マラソングランドチャンピオンシップ)を設立し、成功に導いた。自己ベスト記録は2時間0827秒(1986年シカゴ)

著者プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。近著に「箱根5区」(徳間書店)。

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