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マラソン15戦10勝のレジェンド・瀬古利彦、早大時代の箱根駅伝は「マラソンの半分の距離なのでラクだなと思っていた」 (4ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【「日本がノーと言ったら、お前もそれに従いなさい」】

 だが、その最後の箱根を終えた頃から、モスクワ五輪への日本代表選手の派遣の雲行きが怪しくなる。5月24日、日本のモスクワ五輪のボイコットが決定。JOC(日本オリンピック委員会)総会の場には、柔道の山下泰裕をはじめ多くの日本代表選手が駆けつけ、撤回を涙ながらに訴えた。

「私も行って自分の思いを伝えたかったんですけど、監督には『お前は行くな。お前は日本の言うことを聞きなさい。日本がノーと言ったらお前もそれに従いなさい』と言われたんです。悔しいと思うことはあったけど、監督が言うことがすべてなので仕方ないとあきらめました」

 早大を卒業し、エスビー食品に入社直後の瀬古は、大学時代に決めた「五輪を走る」という目標を理不尽とも言える、思いがけない理由で奪われた。この日のために1日も休まず、厳しい練習をこなしてきた。やりきれない思いを抱え、4年後のロサンゼルス五輪に目標を切り替えたものの、またあの苦しい4年間が続くのかと思うと、少し休みたいという気持ちも生まれてきた。

 そして、それは意外な形で実現することになった。

(つづく。文中敬称略)

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瀬古利彦(せこ・としひこ)/1956年生まれ、三重県桑名市出身。四日市工業高校から本格的に陸上を始め、インターハイでは800m、1500mで2年連続二冠を達成。早稲田大学へ進み、箱根駅伝では4年連続「花の2区」を走り、3、4年時には区間新記録を更新。トラック、駅伝のみならず、大学時代からマラソンで活躍し、エスビー食品時代を含めて、福岡国際、ボストン、ロンドン、シカゴなど国内外の大会での戦績は15戦10勝。無類の強さを誇った。五輪には1984年ロサンゼルス大会(14位)、1988年ソウル大会(9位)と二度出場。引退後は指導者の道に進み、2016年より日本陸上競技連盟の強化委員会マラソン強化戦略プロジェクトリーダー(マラソンリーダー)に就任。MGC(マラソングランドチャンピオンシップ)を設立し、成功に導いた。自己ベスト記録は2時間08分27秒(1986年シカゴ)

著者プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。近著に「箱根5区」(徳間書店)。

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