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マラソン15戦10勝のレジェンド・瀬古利彦、早大時代の箱根駅伝は「マラソンの半分の距離なのでラクだなと思っていた」 (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【早大1年時にマラソン初挑戦】

 地元の四日市がコースの一部で、高校時代に補助員をした全日本大学駅伝にはなじみがあったものの、当時まだテレビ中継のなかった箱根駅伝は、瀬古にとって「聞いたこともない」大会だった。

 11月に中村コーチが監督に昇格すると、瀬古は箱根駅伝の2区を走ることに決まった。初の箱根は直前にケガをしていたこともあって区間11位に終わった。そこから2月13日の京都マラソンに向けての練習を始めた。

「(初めての)マラソンまで1カ月ちょっとしかない。なんとかしなきゃいけないっていうので、40kmを2回走ったんです。それでレースに出たんですが、マラソンなんてどう走っていいのかわからない。30km過ぎから足がキツくなって、39kmあたりからフラフラでした。こんなにつらいことは二度とやらない。100回ぐらいそう思いました」

 タイムは2時間26分00秒。瀬古いわく「失敗レース」だった。

「でも、それがよかったです。マラソンをなめたらいけない。しっかり練習をしないといけないとわかった。それから気持ちを入れ替えて練習をするようになりました」

 大学2年になると、中村監督の指導は厳しさを増していった。競走部の練習が休みの月曜日も、明治神宮外苑や代々木公園で走った。「マラソン選手に休みはない」と言われ、「そうなんだ」と素直に思い、365日、監督に言われるがまま走り続けた。

「その頃、監督に『2年後(の1980年)にモスクワ五輪があるから。逆算して練習していくぞ』と言われたんです。最初は全然ピンとこなくて、『五輪? えっ?』って感じでした。でも、監督がそう言うならついていくしかないなと、ちょっと軽く考えていました」

 そうして迎えた12月の福岡国際マラソンは5位。ようやく走れる体になってきた感覚をつかめた。だが、この時はまだモスクワ五輪をはるか遠くに感じていた。「いける」と思ったのは、3年の夏だった。ヨーロッパ遠征中に5000mのレースで優勝し、自分の現在地を確認することができた。その流れで再び福岡国際マラソンに出て、宗茂やソ連の星といわれたレオニード・モイセーエフに勝って、マラソン初優勝を果たした。

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