マラソン15戦10勝のレジェンド・瀬古利彦、早大時代の箱根駅伝は「マラソンの半分の距離なのでラクだなと思っていた」 (3ページ目)
【ライバルである宗兄弟との激闘】
この時、五輪への道がはっきりと見えてきたが、ライバルも強かった。中村監督から聞かされた、1976年モントリオール五輪前に双子の宗兄弟(茂、猛)が行なっていた練習はとんでもないものだった。40km走を1日に2本走ったり、5000mのインターバル走を8本やったり、きつい合宿の最終日に42kmのタイムトライアルをしたりといった具合だ。
「監督からは『お前はこういう選手と戦わないといけないんだ』と言われて。私も宗さんに勝てば世界一になれると思ったので、頭の中にはずっと宗兄弟がいました。強い彼らふたりと戦うために、僕も中村監督とふたりで戦う覚悟でいました」
そこまで監督を信頼し、ついていこうと思えたのはなぜなのか。
「中村監督は予言者なんです(笑)。監督の言うことをしっかりやっていたら、結果が出るんです。無理だなって思っても、やり続けることでできるようになっていく。そう信じられるようになる。でも、監督からすれば私を手玉にとることなんて簡単なんですよ。もともと軍人(陸軍士官)だったので、私みたいな若い隊員を大勢束ねていたわけですから」
中村監督は、瀬古の宗兄弟へのライバル心をたきつけた。冷たい雨が降るある日、瀬古が「(予定していた)40km走を翌日にしたい」と弱気な言葉を漏らせば、監督からは「宗兄弟は宮崎で40kmを走っているぞ」と言われた。そうして地獄のような練習を継続して迎えた大学4年時の福岡国際マラソン(1979年)は、翌年のモスクワ五輪の代表選考を兼ねていた。
瀬古vs宗兄弟の対決がクローズアップされたレースは、35km過ぎに宗兄弟と瀬古の3人になり、40kmで宗猛がスパートし、宗茂が続いた。
「離されたとき、(自分がゴールするのは)3番かなと思ったんです。でも、思ったほど離れず、ある時、ふたりとも後ろを振り返ったんですよ。ということは、脚に疲れがきているはずだと直感し、そこからはもう絶対に勝つぞと思って前を追いました」
土壇場でふたりを抜き、大接戦を制した瀬古は2年連続での優勝と、モスクワ五輪の男子マラソン代表の座を射止めた。そして、その激闘から1カ月も経たないうちに、瀬古は箱根駅伝の2区を走り、自身が前年に出した区間記録を更新しての区間賞を獲得した。
「マラソンの後の箱根は、なんとも思わなかったですね。むしろマラソンの半分でいいんだ、ラクだなと思っていました。正直なところ、私にとっての箱根はマラソンのための練習でした。監督からは『(早大の)他の選手にとっては箱根しかないんだから、お前は彼らをちゃんと助けないといけない』と言われていました。私としても、相手が宗兄弟ではなく、学生なので勝てなかったからおかしいですし、練習としてしっかり走ろうと思っていました」
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