パリオリンピックマラソン代表・小山直城の駅伝にこだわった大学時代「箱根以上に大きい五輪が目標になった」 (3ページ目)
箱根はチームとして走れなかったが、小山個人としては4年の時、関東インカレ2部10000mで5位、5000mで2位という成績を収めた。1年時まだ自信を持てていなかった10000mでも学生トップクラスの走りを見せた。確かな成長の軌跡を見せたのは、日々の練習の取り組み方が大きかった。
「東農大では、自分で考えて練習をするという習慣を得ることができました。チームの練習だけじゃ大会で勝てないし、予選会でも走れないという危機感があったので、週2回のポイント練習以外のところでいろいろ考えてやっていました。例えば、朝練で普通は10キロだけど、自分は15キロを走って距離を踏んだりして月平均で700~800キロは走っていたと思います。自分で考えるというのは、実業団に行ってからより大切になってくるので、そういう経験を大学時代にできていたのは自分にとってプラスでした」
小山は最終的にチームで駅伝を走る夢は叶わなかった。中学時代から憧れ、夢見ていた箱根駅伝は、関東連合での1回で終わった。
この1回の経験は、小山のその後の競技人生に何か影響を与えたのだろうか。
「箱根を1回だけ走って、今、実業団で走っていますけど、箱根を超える規模というか、大きな大会はないです。日本一大きな大会で、注目度も高い。自分はそれを経験したことで、先のことを考えるようになりました。箱根以上に大きい五輪や世界陸上を目標にして、世界や日本のトップクラスの選手と勝負したいと思うようになったんです」
小山はそれから5年後、MGCに勝利。五輪への切符を掴むことになる。
そのMGCで優勝した2023年、東京農大は高槻芳照(現・富士通)、並木寧音(現・SUBARU)ら4年生が軸となり、エースでルーキーの前田和摩が予選会で9位に入る快走を見せて、10年ぶりに箱根駅伝予選会を突破した。本大会は22位に終わったが、小山は自分が果たせなかった目標を実現した後輩たちを頼もしく見ていた。
「いやーもう羨ましいですよ。今のチームに入ってやりたかったですね」
そう語る小山の表情には大きな笑みがこぼれていた。
著者プロフィール
佐藤 俊 (さとう・しゅん)
1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。
【画像】徳光和夫が愛する「巨人」と「箱根駅伝」を語る・インタビューカット集
3 / 3