パリオリンピックマラソン代表・小山直城の駅伝にこだわった大学時代「箱根以上に大きい五輪が目標になった」 (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

 個人では箱根駅伝に出走したが、東農大のチームとしては、91回大会の予選会を突破できず8大会連続での箱根駅伝出場を逃していた。小山が1年時の92回大会の予選会は12位、2年時は13位に終わり、出場を果たせなかった。2年時に個人として箱根駅伝を走ったが、一度経験するとまた次も走りたくなるのが箱根の魔力であり、魅力でもあるが、小山も3年、4年と上級生になるにつれ、その気持ちがどんどん強くなり、なんとかチームとして出場できるように先頭に立ってチームを牽引した。

「自分が3年の時に監督が変わって、練習の方向性や内容、合宿地などが変わりました。でも、なかなかチームとして機能していなくて、強くなっていったという実感があまりなかったですね。そのなかで自分がチームのトップとして結果を出して引っ張っていくのを意識していましたが、自分ひとりの力ではどうにもならなかったです」

 学生のなかにはいろんな考えをもった選手がいる。箱根駅伝に出られなくても個人としての能力を高め、トラックで結果を残すことを目標にしている選手がいれば、大学のトップレベルの選手との力の差を感じ、どうせ勝てないと冷めた目で陸上を続ける選手もいる。小山自身は箱根への強い意欲と高い意識を持ち、同世代には塩尻和也(現・富士通)や森田歩希(現・GMO)ら非常に強い選手がいたので、彼らに対するライバル心もあった。

 この時、小山は、どういう思いで競技をしていたのだろうか。

「個人の部分では、もちろんテレビで見た強い選手に負けたくないという気持ちはありましたが、一方で塩尻選手とかとはレベルが違っていたので少し距離があるなと思っていました。ただ、自分は個人で何かを成し得ることよりも、狙いは本当に箱根駅伝だけ。箱根駅伝に出ることが一番の目標だったんです」

 今にして思えば、小山が箱根駅伝に一番近づいたのは、大学1年の時の予選会だった。この時、東農大は12位だった。

「予選会って、8番、9番、10番の選手がすごく大事になってくるんです。でも、チームの走力として、そこが足りなかったですし、何が何でも箱根に行くんだという熱も足りなかったですね。最初から諦めムードになっているというか......結局、自分たちの代は一度も箱根を走ることなく終わってしまった。一つ前の代から予選落ちして、そこからズルズル行ってしまったかなと思います」

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