最後の福岡国際マラソン。瀬古利彦、中山竹通、藤田敦史らが見せた伝説の走り3レースを振り返る (2ページ目)
しかし、ともにそれ以上ペースは上げられず、瀬古との差は10mほどのまま。そしてジワジワ距離を詰めてきた瀬古は、ラスト200mでスパートかけた。先頭に立ち2時間10分35秒でゴール。茂が2秒差で続き、猛は5秒差。最後まで競り合って表彰台を独占した3人は、そのままモスクワ五輪代表に選ばれた。
出場すれば表彰台独占も可能だったと思われるモスクワ五輪は、日本のボイコットにより出場できなかった。だが、モスクワ大会で五輪連覇を果たしたワルデマー・チェルピンスキー(ドイツ民主共和国)を迎えた1980年の福岡国際で、3連覇を果たした瀬古が猛とともに2時間9分台を出し、伊藤国光が3位、茂は5位と日本勢が五輪王者を退けた。
さらにロサンゼルス五輪代表選考会を兼ねた1983年では、ジュマ・イカンガー(タンザニア)と競り合った瀬古が2時間08分38秒で優勝し、茂と猛は2時間9分11秒と17秒で3位と4位に入り、再び3人が五輪代表になった。この大会でデッドヒートを繰り広げる3人から目が離せなかった。
2つ目に記憶に残っているのは、翌年のソウル五輪代表選考を兼ねる1987年の大会だ。優勝した中山竹通が氷雨の降る中で、ただ1人突っ走った姿は鮮烈だった。
当時は、「五輪代表をこのレース一発で決める」という暗黙の了解があった時代。しかし1987年大会で、その「福岡一発勝負」が揺らいだ。有力候補だった瀬古が左足腓骨の剥離骨折で欠場したのだ。
無名のサイモン(タンザニア)が、最初の5kmを14分30秒という超ハイペースで飛び出した。中山は追走集団を先頭で引っ張って14分35秒で通過すると、そこからの5kmは14分30秒でカバーしてサイモンに迫る。それに続く選手は日本人4人を含めて5人のみになったが、中山がそのハイペースを維持すると、徐々に離れていき、14kmでサイモンを突き放して完全な独走状態を作った。
中間点通過は1時間01分55秒。当時の世界最高記録だったカルロス・ロペス(ポルトガル)の通過タイムを上回っていた。ちなみに2021年2月に2時間04分56秒の日本記録を出した鈴木健吾の通過タイムは、その時の中山より41秒遅い1時間02分36秒。ペースメーカーがついていない当時で、その走りは今考えても驚異的だ。
並走する報道バスから見える、順位が落ちてきた選手たちは、みぞれ混じりの冷たい雨に打たれて疲労感を纏(まと)っていた。そんな彼らを尻目に中山の走りは、出場しなかった瀬古に自分の強さを見せつけんとする気迫さえ感じさせるものだった。
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