バブルに消えたハリマヤシューズ。日本の「ものづくり」よ永遠に (5ページ目)
しかし、その店は不思議とランナーたちを惹きつけた。なぜならば、上田が勧めるシューズは足にしっくりきて、実際に自己ベストを更新できたからだ。
「選手のレベルや足に合ったシューズを選ぶのが私の仕事だと。ほしいといわれても合わない靴は売らないんです」
オリンピアサンワーズ2代目店主の川見充子が、在りし日の初代店主を回想する。
「上田は近畿大会や全国大会に行く選手たちに、自分よりも速い選手はどんな靴を履いてるか見てこいと命じていたんです。どんなラインやった? メーカー名も聞いてこいって。それがハリマヤとの出会いだったんです」
通学にも部活にも使えるホワイトラインのシューズ
当時、関西の陸上界ではあまり知られていなかったハリマヤシューズだが、東京に買い付けに行って以来、上田はハリマヤの足入れのよさに惚れ込み、関西でハリマヤを広めるのに一役買うことになった。
「靴のアッパー部を靴下のように袋縫いしているのはハリマヤだけだったんです。シューズに足を入れると足が包みこまれる感覚。ハリマヤのフィット感がいいのは足袋が基本だからだと思います」(川見)
上田はハリマヤに特注して店のオリジナルシューズも作った。陸上部の中学生が、通学にも部活にも使えるようなランニングシューズを依頼したのだ。白地のボディに白ラインのデザインであれば、校則が厳しくても通学に使える。もちろん職人の手による国産シューズだ。
1986年、上田が急逝し、店の常連客だった川見が2代目店主を引き継いで数年たった頃だった。スポーツ用品の業界内にハリマヤが倒産しそうだという噂が流れた。
「ハリマヤさんが危ないよって言われて、他のお店は慌ててメーカーに返品を申し出たんですが、私はいろんなものをとっとかなあかんと、逆に取り寄せたんです。ハリマヤは本当に日本人の足型に合った靴なので、将来必ず必要になるときがやってくると思って集めておいたんですよ」
5 / 7