【平成の名力士列伝:北勝海】ひたむきな稽古で低評価と逆境を乗り越えた不屈の名横綱 (2ページ目)
【平成初場所で奇跡の復活劇を契機に横綱としての力を発揮】
心が折れそうになったとき、「体を激しく動かしたあと、極度の低温で冷やす」という、当時では常識外れの治療法を行なっているトレーナーの存在を知り、駆け込んだ。毎日8時間のトレーニングで、腰を動かすたびに激痛が走ったが、ベッドにただじっと横になっているよりはましだった。壮絶なリハビリに取り組むうちに、少しずつ痛みが取れていく。暗闇に見出した光を励みにさらに努力を重ね、支度部屋での腰痛発症から8カ月後、昭和64(1989)年1月場所、復活の土俵に上がると決めた。
3場所連続休場明けで進退のかかった場所は、直前に昭和天皇が崩御して平成元年1月場所と名を改め、初日を1日遅らせる異例の事態となった。しかし、カゼをこじらせて高熱に苦しみ、それが絶好の休養になったという北勝海は、初日から14連勝の快進撃。千秋楽、1敗の大関・旭富士に敗れて並ばれたたものの、優勝決定戦では快勝し、8場所ぶり4回目となる、奇跡の復活優勝を飾った。
これ以後も、北勝海は腰痛の爆弾を抱えながら、横綱として安定した成績を残し続けた。
同年7月場所では千代の富士と、史上初の同部屋横綱同士の優勝決定戦を実現。敗れたものの、歴史に名を刻んだ。平成2(1990)年3月には霧島、小錦との優勝決定巴戦に進出し、1度は小錦に敗れながら復活して優勝。平成3(1991)年3月場所は、14日目の1敗同士の対戦で勝利しながら左ヒザを負傷。相撲が取れる状態でなかったが、その状態を隠して千秋楽に臨み、自分の出番の前に1差で追う横綱・大乃国が敗れ、8度目の優勝をもぎ取った。
これ以降は、ヒザの負傷や腰痛などのため休場が増え、平成4(1992)年5月前に引退を発表。28歳の若さで土俵を去ることになったが、持てる力を出し切った、清々しい土俵人生だった。
引退後は八角部屋を興し、関脇・北勝力、小結・海鵬、隠岐の海、北勝富士らを育てる一方で、理事として相撲協会の運営にも尽力し、平成27(2015)年11月に北の湖理事長が亡くなると、理事長代行を経て理事長に就任。長期政権を築き、平成時代の終わりと令和時代の始まりを理事長として迎え、大相撲の歴史を次の世代へつなごうとしている。
【Profile】北勝海信芳(ほくとうみ・のぶよし)/昭和38(1963)年6月22日生まれ、北海道広尾郡広尾町出身/本名:保志信芳/所属:九重部屋/しこ名履歴:保志→富士若→保志→北勝海/初土俵:昭和54(1979)年3月場所/引退場所:平成4(1992)年3月場所/最高位:第61代横綱
著者プロフィール
十枝慶二 (とえだ・けいじ)
1966(昭和41)年生まれ、東京都出身。京都大学時代は相撲部に所属し、全国国公立大学対抗相撲大会個人戦で2連覇を果たす 。卒業後はベースボール・マガジン社に勤務し「月刊相撲」「月刊VANVAN相撲界」を編集。両誌の編集長も務め、約7年間勤務後に退社。教育関連企業での7年間の勤務を経て、フリーに。「月刊相撲」で、連載「相撲観戦がもっと楽しくなる 技の世界」、連載「アマ翔る!」(アマチュア相撲訪問記)などを執筆。著書に『だれかに話したくなる相撲のはなし』(海竜社)。
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