田中陽希が「自分を変えたい」と挑んだ501座の過酷な登山。旅を経て気づいた「変えるのはちょっと違う」 (2ページ目)

  • 田中清行●取材・文 text by Tanaka Kiyoyuki
  • 岡庭璃子●撮影 photo by Okaniwa Rico

田中が拠点にする群馬県みなかみ町の森のなかで田中が拠点にする群馬県みなかみ町の森のなかでこの記事に関連する写真を見るこの記事に関連する写真を見るこの記事に関連する写真を見る「百名山」「2百名山」の時は、毎日がチャレンジで、自分できちんとコントロールしました。しかし「3百名山」の時には、前2回のそれは「自分」ではないと感じていました。「あの人」のようには、今はできないと。前2回は必死でしたし、その必死さが、心身ともにいい作用をおよぼしていたのでしょう。

 ただ、あの必死さは、「3百名山」では続きません。前2回が7カ月と8カ月に対して、「3百名山」は結果的にではありますが3年7カ月。自分の変革を主眼に置いていた前2回と異なり、自分らしくやろう、「上書き」は続けながら「この人」の今までの知見を生かして、しなやかにやろうと思うようになっていました。

「いつまでも続くものではない」

 長い旅の道中、今いる場所と、心が一致していない場合があります。たとえば、秋の新潟の山を登りながら、もうすぐ冬だ、飯豊山(いいでさん)や朝日連峰に雪が降ったらどうなるだろうと思ったりします。そんな時は、いやいや、今いるここに全身全霊を傾けよう、と戒めます。

 一歩、一座、その積み重ねによって、初めて次の一歩が生まれ、初めて翌日が生まれ、初めて次の挑戦が生まれるのです。それを怠らずに続けてきたからこそ、最後までやり通せたのだと思います。前2回の時は気がはやって、今いるところと違う場所や山を考えて、走っていたので、時には体調を崩し、時には足をくじいたこともありました。

 心ここにあらず、の時は大体、痛い目に遭っています。違うことを考えていると、足下が視界に入っていません。次出す一歩に全て集中していかないとその次の一歩はない、と常に足下に注意を払うように自戒しています。

「いつまでも続くものではない」。山も歩みを続ければいつかは山頂に立つことができます。苦しさ、険しさ、つらさは、まさに山登りに似ているところがあって、いつまでも続くわけではありません。

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