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東京五輪金メダリスト、三宅義信が語る過去と未来 (3ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • 鈴木昭寿●写真photo by Suzuki Terukazu

 ミュンヘンを終えると指導者としてウエイトリフティングに携わり、76年モントリオール五輪から84年ロス五輪(※)まで全日本チームの監督も務めた。モントリオールではバンタム級とフェザー級の銅メダルを筆頭に入賞6。80年モスクワ五輪(※)は出場できなかったが、共産圏が出場しなかったロス五輪では、銅3個を含めて入賞9という成績を残した。

※冷戦の影響から、80年モスクワ五輪には日本を含む西側諸国が出場を辞退し、84年ロス五輪には東側諸国が出場を辞退した。

ゴールドメダリストを育てる会の事務所には数多くの三宅さんの功績が飾られているゴールドメダリストを育てる会の事務所には数多くの三宅さんの功績が飾られている「正直、ロスは共産圏の選手が来ていたらひとつくらい順位が下がり、メダル獲得は難しかったでしょうね。僕が徹底的に教えたのはモントリオールで銅メダルを獲った安藤謙吉と平井一正までです。もう大和魂とかハングリー精神という時代では無くなっていて、練習内容も変わってきていましたからね」

 結局三宅氏が退いたあとの五輪は、88年ソウルは入賞5だが最高位は5位。92年バルセロナは入賞2に止まり、96年アトランタと00年シドニーは池畑大の4位と6位のみで、その後は入賞もなしと世界に置いて行かれる状況になってしまった。

「女子が五輪種目になった00年頃からは中学生から競技を始めるようになり、高校では フォームの基本技術をしっかり身につけられるようになりましたね。でも、技術で記録はそれなりに伸びるから、基礎体力をつけることを怠っているような面もあると思います。シニアになって本当に伸びてくるためには基礎体力は必要不可欠なもの。その面でも今の選手は野性味がないと思いますね。時代が変わる必要もあると思って僕は身を引いたけど、その中でコーチ陣が少し勉強を怠ったのかな、とも感じてますね」

 世界との明らかな差は練習量だと三宅氏は言う。例えば2時間のバーベルトレーニングをしていても、日本選手は実際にバーベルに触っているのは30分程度で、残りは休憩していると。「実際はそれが逆にならなければいけないんですよ。インターバルが短くなれば体にも負荷はかかるが、その分だけ肝機能なども強くなってくる。15秒開けたくらいでドンドンやれば、筋肉もそれに慣れていく。そういう辛さに慣れるということが一番大事なことなんです」

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