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東京五輪金メダリスト、三宅義信が語る過去と未来 (2ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • 鈴木昭寿●写真photo by Suzuki Terukazu

 ローマでは試合が大会終盤に行なわれ、滞在日数が40日間に及んでいたのも影響した。「それで東京では『三宅の金メダルで勢いを付ける』という意味もあり、競技2日目に行なったんです」と言って笑う。

「ローマは苦労したけど、東京のコンディション作りは楽でしたね。湿気もあるし水も飲めるし、あらゆるものが自分でどうにかなるわけですから。でも、金メダル獲得が使命になっていたから、プレッシャーはものすごくありました。私も試合の前の日くらいまではずっと心臓がバクバクして夜も眠れなかったですね。横になっていても神経は起きているような感じで、熟睡はしてなかった」

 そんなプレッシャーを感じながらも、「プレッシャーというのは誰にでもかかることですから。どこで開き直るかです。ウエイトリフティングの場合は、練習でできているからといってもそれが試合での自信にはならない。練習では何回も挑戦できるけど試合では3回しかできない。でも『自分がやってきた』という事は脳裏には残っているから、それを自信にするしかない。それで試合当日にはもう開き直れて、声援を聞いたり観に来てくれていた両親や知り合いの顔を見たりして、だんだん落ち着いていきました」

 金メダルを獲得した瞬間は、嬉しさより「終わった!」という気持ちの方が強かったという。「五輪というのは誰でも同じだと思うけど、いざ始まってしまうと『勝っても負けてもいいから早く終わってほしい』という気持ちになるんです」と言う。

 東京五輪が終わった時の三宅氏は25歳になる直前。体力的にはまだまだ余裕があった。それに加えて6歳下の弟・義行が競技を始めていたので、彼にアドバイスをしながら競技を続けようと考えた。

「だから68年メキシコ五輪は楽でしたね。金メダルを獲るのが使命になっているわけではなかったし、弟と一緒に出場してたし」と言って笑顔を見せる三宅氏はフェザー級で五輪連覇を達成。弟の義行氏も3位になり兄弟で表彰台にあがった。

 最後に出場したミュンヘンでは、「もう33歳で、弟を指導しながら選手も兼務するという形になっていましたね。弟はバリバリ力を出していて、ミュンヘンのプレ五輪でも優勝していたから金メダルを狙っていたんです。でも直前になってケガをして出られなくなって、『それなら自分が』と3連覇を狙っていきました」という。

 しかし、ブルガリアの選手が上の階級から体重を下げてきたことや、体重がうまく減らなかったこと、ルール変更の知らせが遅かったことが重なり、4位とメダルを逃した。

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