【新体操】山﨑浩子が語る「フェアリージャパンの育て方」
10月特集 東京オリンピック 1964の栄光、2020の展望(10)
美と妖艶さを兼ね備え、見ているものを魅了する「フェアリージャパン POLA」こと、新体操団体・日本代表チーム。2004年・アテネ五輪の出場権を逃したことをキッカケに、画期的な方法で全国から選手が選抜され、まったく新しいチームとして立ち上がった。その結果、北京五輪、ロンドン五輪と2大会続けて出場を果たし、世界と互角に戦えるまであと一歩のところまで来ている。そのフェアリージャパンの生みの親は、1984年のロサンゼルス五輪に個人総合で出場した山﨑浩子氏だ。「何もかも世界基準にする」という信念のもと、育成と強化に努めてきた彼女に話を聞いた。
現在のフェアリージャパンを育てた強化本部長の山﨑浩子 1984年のロサンゼルス五輪で個人総合が正式種目となり、1996年のアトランタ五輪からは団体競技も採用された新体操。日本は2000年のシドニー五輪で団体総合5位となったが、2003年の世界選手権でまさかの団体総合16位に沈み、アテネ五輪への出場を逃してしまった。
そんな状況を受けて、ロサンゼルス五輪で個人総合8位に入賞した山﨑浩子氏が、強化本部長に就任。2005年から本格的に新体操の改革に着手した。「日本がメダルを狙うなら、団体のほうが近い」と考えた山﨑氏は、従来とは違う選抜方法で全国から若手を選び、長期間に渡って集中合宿を行なうという強化策を進めていったのである。
「世界の強豪国は、ジュニア時代から選手を集めて強化しています。そこで日本も、世界と同じように中・長期的な強化をしようと決めました。当時の日本は、あまりにも世界の実情を知っている人たちが少なく、世界でどう戦うかを考えていなかった。したがって私は、強化のスケジュールを日本中心ではなく、世界に合わせることにしたんです」
山﨑氏が進めた強化策は、学閥やクラブに関係なくオーディションで選手を選抜し、千葉で共同生活を行ないながら競技に専念するというものだった。
このような選抜方式を採用した背景には、2001年のルール変更も影響している。5人で演技する団体では、たとえば4人が0.8点の技を揃えても、たったひとりが失敗すれば、減点ではなく0点になるようになった。つまり、より高いレベルで合わせられる選手が必要になったため、柔軟性や身体能力に秀でた若手を厳選して集め、4年の月日をかけて五輪を目指すことにしたのだ。
選手個々の実績ではなく、ポテンシャルや身体能力だけで選抜して育成・強化することは、日本では初めてのこと。当然、関係者からは反対もあったという。それでも、山﨑氏は信念を貫いた。
「チームとしては、もちろん大学生のほうが上手だったので、そちらを国際大会に派遣したほうが良いのでは......という声もあった。でも、(新しい方法を)やり続けなければいけないという思いがありました」
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