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【特別対談】棚橋弘至×藤波辰爾が語り合う受け身の美学 「相手の強い部分を知っておくことが大事」 (4ページ目)

  • 取材・文/井上崇宏 取材・構成/市川光治(光スタジオ)

2026年1月4日の東京ドーム大会で引退する棚橋弘至 撮影/タイコウクニヨシ2026年1月4日の東京ドーム大会で引退する棚橋弘至 撮影/タイコウクニヨシこの記事に関連する写真を見る

【怖さとか緊張感を忘れちゃダメ】

── そうして相手を磨くことで、今度は自分が窮地に追い込まれていく。その繰り返しですね。

藤波 猪木さんは本物の蹴りやパンチを持った相手との異種格闘技戦においても、相手を光らせたからね。モンスターマンにしろ、ウィリー・ウィリアムスにしろ。それができるレスラーというのはすごいよ。だって、こっちの負担は極力なくして、早く潰してしまえばいいわけでしょう。

棚橋 それは覚悟ですよね。猪木さんも藤波さんも、その覚悟の量がほかのレスラーとは圧倒的に違う。

藤波 レスラーって、いざとなった時には腹を括ってる。お客さんも期待するから逃げ場がない。

棚橋 そこに少年時代の僕は痺れてしまったんです。プロレスラーは命を張ってるな、身体を張ってるなっていう。「なんでここまでできるんだろう......」っていつも思っていました。

藤波 オレにはまったく格闘技経験がなかったから、本来だったらその場から早く逃げたいというのが正直なところ。でも逃げられないから、反対にそこに飛び込んでしまうしかなかった。

── 藤波さんがいつもおっしゃっているのは、格闘技経験がないからこそ自分の力量を試してみたくなると。

藤波 そう。知らないから怖いんだけど、その怖さが緊張感につながるんだよね。自分に格闘技の経験があったら、どこかで余裕があって、オレが言っている緊張感というものは試合からなくなっちゃうだろうな。特に日本のプロレスファンは細かい部分まで見ているから。

棚橋 そうですね。指先から表情から、その動きの機微にすべての感情が出てしまうので。

藤波 だから若手のデビュー戦なんかを見たらよくわかるよね。みんな身震いして、太ももなんかブルブルしてる。そりゃ逃げ場のない四角いリングに上げられて、そこで組み合うなんて最初はみんな怖いよ。オレの息子(LEONA)もプロレスでデビューして10年ぐらいかな? オレはいまだに必ず言う。「絶対に怖さとか緊張感は忘れちゃダメだ」と。変に余裕を持って試合をやったら、絶対にお客さんにはプロレスの緊張感が伝わらないから。

つづく>>


棚橋弘至(たなはし・ひろし)/1976年11月13日生まれ。岐阜県出身。大学時代からレスリングを始め、98年2月に新日本プロレスの入門テストに合格。99年に立命館大学を卒業し、新日本へ入門。同年10月10日、後楽園ホールにおける真壁伸也(現・刀義)戦でデビュー。2006年7月17日、IWGPヘビー級王座決定トーナメントを制して第45代王座に輝く。09年、プロレス大賞を受賞。11年1月4日、小島聡を破り、第56代IWGPヘビー級王者となり、そこから新記録となる11度の防衛に成功した。23年12月23日に新日本プロレスの代表取締役社長に就任。26年1月4日の東京ドーム大会で引退する

藤波辰爾(ふじなみ・たつみ)/1953年12月28日生まれ。大分県出身。70年6月、16歳で日本プロレスに入門し、翌71年5月9日デビュー。72年3月、新日本プロレス旗揚げ戦の第1試合に出場。同年12月に開催された第1回カール・ゴッチ杯で優勝し、75年6月に海外遠征へ出発。カール・ゴッチのもとで修行を積み、 78年1月にWWWFジュニアヘビー級王座を獲得した。81年末にヘビー級転向を宣言。長州力との戦いは「名勝負数え唄」と呼ばれファンを魅了。99年6月からは5年間に渡り新日本プロレスの代表取締役社長を務めた。06年6月に新日本を退団し、同年8月に『無我ワールド・プロレスリング』を旗揚げ。 08年より団体名を『ドラディション』へと変更した

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