【プロレス連載】スタン・ハンセンの引き抜き合戦を振り返る 伝説の「首折り事件」とブロディとのコンビ (3ページ目)
ブロディはスポーツ新聞の記者だったけど、こちらも給料が安くて、酒場での用心棒も掛け持ちしていた。そんな時に"鉄の爪"フリッツ・フォン・エリックから声がかかり1974年4月にデビューします。
当時のファンクス道場には、ジャンボ鶴田さんや、WWF王者になったボブ・バックランドなど逸材が集まっていました。だからジャンボさんとハンセンは、日本的に言うと「同じ釜の飯を食った仲」。アメリカ流なら「同じハンバーガーを食った仲」かな(笑)。青春というか、やっぱり相通じるものがあったと思いますよ。
【伝説の"首折り事件"で有名レスラーに】
――初来日はいつだったでしょうか。
柴田:1975年9月の全日本でしたね。最初、馬場さんは「パワーだけのファイター」といった言葉を残しましたが、あまり印象がよくなかったみたいです。しかし1976年4月26日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで、当時のWWWF(現WWE)ヘビー級王者ブルーノ・サンマルチノの首を折って一躍有名になりましたね。
――"人間発電所"サンマルチノとのタイトル戦での「首折り事件」ですね。
柴田:ウエスタン・ラリアートでそうなった、とも広まったんですが......真相は、ハンセンのボディスラムが危険な角度で落ちて、サンマルチノが思わぬダメージを負ってしまったんです。試合中に重傷を負いながらサンマルチノは戦い続けましたが、額の血を確認してレフェリーが試合を止めました。
――ハンセンとサンマルチノの再戦は行なわれたのでしょうか?
柴田:2カ月後、6月25日にサンマルチノの首が回復しないまま、再戦が行なわれました。結果はサンマルチノのリングアウト勝ちです。
――なぜ、ケガが回復してないのに試合を行なったのですか?
柴田:1976年6月26日は、日本武道館で猪木vsモハメド・アリ戦が開催され、アメリカでも生中継されたんですよ。それで、WWWFの創業者でプロモーターだったビンス・マクマホン・シニアがチケットの売れ行きを心配し、サンマルチノに出場を懇願したらしいですね。
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