佐竹雅昭が振り返るK-1準優勝 23歳のピーター・アーツは「めちゃくちゃ強かった」 (3ページ目)
【決勝、アーツとのギリギリの試合】
リベンジを飾ったあとの決勝戦で待ち受けていたのはピーター・アーツだった。"オランダの怪童"とも呼ばれたアーツは当時、23歳。192cmの長身を生かしたハイキックを武器に、キックボクシング界で世界ナンバーワンへと駆け上がろうとしていた時だった。
佐竹は1992年10月4日、大阪府立体育会館での「格闘技オリンピックⅢ」でアーツと対戦し、5ラウンド引き分けに持ち込んでいた。2年ぶりの再戦も、圧倒的なパワーを誇るアーツに必死に食らいついた。
「この2年前、アーツと初めて戦った時にヒザ蹴りがすさまじくて、あばらを折られていたんです。だからこの決勝戦では、ヒザをもらわないようにと考えていました」
その言葉どおり距離を取った1ラウンドは、アーツのパンチに合わせたローキックが効果的に入った。しかし、アーツパンチとローキックのコンビネーションに押され始めると、2ラウンドにはロープに詰められ、警戒していたヒザ蹴りを浴びた。
佐竹もローキックで抵抗するが、手数で圧倒される。最終3ラウンドでは、パンチの連打で棒立ちになる場面もあった。ダウンこそ奪われなかったが、3-0の判定で敗れた。
「アーツはめちゃくちゃ強かった。ヒザ蹴りをもらいたくないから、こっちは距離を取っていましたが、そうなると手が伸びてくる。パンチも蹴りも強烈でしたね。ただ、試合後に石井館長から、アーツが『逆に俺がアゴに一発もらっていたら倒れていた』と言っていたことを聞いて、そこまで追い詰めることができたのかと思いました。それくらい、お互いにギリギリの試合だったんです。
それにしても、ブランコに勝ったと思ったら今度はアーツですよ。この連戦は、我ながら『ようやったな』と思いますよ。あの時のK-1は"怪獣"の集まりでした。ゴジラ、キングギドラ、ラドンなどが一斉に集結したような怪獣大戦争。あんな時代は、そのあとの日本の格闘技界にもなかったと思います。あれだけの選手が集まる大会を開催するのは、もう無理なのかもしれませんね。とにかく、ブランコ、アーツの2連戦は、僕のK-1でのピークだったと思います」
優勝こそ逃したが、世界2位という結果を手にした。K-1での日本人選手の準優勝は、それから10年後の2004年に武蔵が準優勝するまで誰も成し遂げることができなかった。佐竹は当時、世界に通じる唯一のヘビー級戦士だった。
「僕に先生はいませんでしたが、正道会館に中山猛夫師範がいてくれたおかげで強さの準値がわかったことが大きかったです。専門的なトレーナーがいたらもっと強くなっていたかもしれませんが、そこは今言っても仕方がないことです。
何しろ、僕の前にヘビー級で世界と戦う日本人選手がいなかったわけですから。すさまじく大変な闘いの連続でしたけど『自分の信じたことを貫こう』と思っていましたし、そう言い聞かせること以外に、あのしんどい試合に挑むモチベーションを保つ術はありませんでした。本当に、命をすり減らして闘っていましたね」
その後、K-1は大きな盛り上がりを見せることになるが、佐竹は徐々に、崩壊につながる違和感を抱き始めるようになった。
(連載11:佐竹雅昭が感じていた「K-1崩壊」の兆し ブームとともに「拝金主義になっていった」>>)
【プロフィール】
佐竹雅昭(さたけ・まさあき)
1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。
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