佐竹雅昭が振り返るK-1準優勝 23歳のピーター・アーツは「めちゃくちゃ強かった」 (2ページ目)
さまざまなオファーに対応するために、個人事務所も設立した。
「石井(和義)館長から『自分で会社を作れ』とアドバイスされて、館長の紹介で司法書士と相談して会社名も『有限会社ショッカー』と決めたんですが......30万円の手付金を司法書士に渡したら、持ち逃げされました(苦笑)。
それで、僕が個人で別の税理士の先生を見つけて、ファンクラブのみんなから会社名を募集してつけた名前が『怪獣王国』。自分で事務所を借りて社員も5人雇いました。年収は億を超えましたよ」
【シカティックとの再戦は「一番いい試合」】
そんななか、シカティックにリベンジする機会が訪れる。1994年4月30日、K-1グランプリの第2回大会が開催された。
会場は前年と同じ代々木第一体育館。出場選手は、佐竹とシカティックに加え、オランダからピーター・アーツ、ロブ・ファン・エスドンク、アンドレ・マナートの3選手が参戦。さらに、アメリカのパトリック・スミス、イギリスのマイケル・トンプソン、そしてスイスの空手家、アンディ・フグが出場した。
大会の目玉は、極真会館時代に「外国人最強の空手家」とうたわれたフグの参戦だったが、1回戦でパトリック・スミスに1ラウンドKOで惨敗する。そんな衝撃の試合もあったなかで、佐竹は初戦の相手であるマイケル・トンプソンを3ラウンドTKOで下す。そして続く準決勝、前年と同じ状況でシカティックと対戦した。
「前年の試合で、彼のパンチが信じられないほど痛いことは身に染みてわかっていたので、とにかくパンチは頭で受けることを考えて挑みました」
ガードを固め、アゴを引くことを徹底するなど防御に注力した。攻撃は、相手のパンチに合わせてローキック、接近戦になればヒザ蹴りを放った。さらに、バックブローの変則技でシカティックを翻弄。相手の右ローキックに合わせたカウンターの左フックを入れるなど、シカティックの動きを封じた。
初めてキックボクシングの試合に挑んだ1990年6月30日のドン・中矢・ニールセン戦から約4年。佐竹は攻守ともに、グローブを着けた戦いに急速に対応していた。結果は、KOは逃したが、2-0の判定勝ちでリベンジを果たした。
「作戦も完璧にはまりましたし、ほぼ自分が思い描いた通りの動きができました。あのブランコ戦は、僕がK-1で試合をしたなかで一番いい試合だったと思っています」
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