日本ボクシング世界王者列伝:浜田剛史 強打ゆえのブランクを経て頂点に辿り着いた不撓不屈の「KOのカリスマ」
浜田剛史は鮮烈なKO劇で世界タイトル奪取を果たした photo by AFLO
井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNA03:浜田剛史
不撓不屈の人である。繰り返しやってくる試練の数々にじっと耐え、いや、勇ましく打ち克って、浜田剛史(帝拳)は、ついに世界チャンピオンの栄冠にたどり着いた。気質はどこまでも生一本。自分の信念にとことん従順であり、ボクシング以外の興味のすべてを捨て、前だけを向いてまっしぐら。けれん味のない戦いの流儀、その風貌、立ち居振る舞いから、この人のルーツでもある琉球武士の位格になぞらえられもした。そして、実の浜田剛史もここまで書き連ねた言語を、そのまま束ねたような人物である。
【3分9秒----衝撃の王座獲得劇】
浜田剛史の王座奪取は、日本のボクシングの歴史のなかでも、最もセンセーショナルなノックアウトとともにもたらされた。
1986年7月24日、東京・国技館。日本中を沸かせる強打のサウスポー、浜田の世界初挑戦は、決して有利な予想のなかで戦われたわけではない。挑むWBC世界スーパーライト級(当時の名称はジュニアウェルター級)チャンピオンはレネ・アルレドンド(メキシコ)。実の兄も世界チャンピオンというボクシングファミリーの出身で、注目のハードパンチャーだ。180cmの長身から繰り出す切れ味抜群のパンチによって、それまでの38勝(2敗)中34のKO勝利を記録していた。まだ25歳になったばかりで、わずか2カ月前に世界王座を奪取した勢いもあった。
そんな強いチャンピオン以外にも大きな壁があった。浜田が戦ったスーパーライト級という階級だ。140ポンド(63.5kg)をリミットにするこのウェイトクラスは、世界的には最も層が厚い。有力チャンピオンはむろん、魅惑の新星が次々に生まれた。日本でも1967年に藤猛(リキ)がスーパーライト級の世界王者になっているが、藤はハワイ生まれの日系3世。ボクシングを習ったのも米海兵隊だ。また、2階級上のスーパーウェルター級(当時の名称はジュニアミドル級)では3人の日本人世界チャンピオンが生まれているが、こちらの階級は創設から間もない頃で、欧米の主力選手の注目が薄かったのも事実である。
厳しい条件下、浜田はあくまで冷厳だった。いつもどおりにボニー・タイラーが歌う『ホールディング・アウト・フォー・ア・ヒーロー』をバックに入場してくる姿にも昂奮に慄(おのの)く気配は見えない。ガウンの背に描かれた獅子の化身シーサーの鬼の形相だけが、ウチナンチュ(沖縄の方言で「沖縄の人」の意味)の猛る思いを連想させた。
ゴングが鳴った。浜田はじっくりとプレスをかけ、追いかける。アルレドンドは、応戦の体勢を作れない。1ラウンドの2分過ぎから、チャンピオンはずっとロープを背にした戦いだった。そしてラウンド終了寸前。突如、破壊のドラマはスタートし、一気に完結する。浜田の右フックがジャストのタイミングで炸裂。一度、ロープ最下段に腰を落としたメキシカンがバウンドするように体を立ててくると、そこに左→右のストレート、右フック、左ストレートからとどめの右フック。仰向けに倒れ込んだアルレドンドは、昏々と眠った。
国技館の桟敷席から、無数の座布団が投げ込まれた。挑戦者コーナーから狂喜するセコンドたちがリングになだれ込む。爆発的な歓喜のなかで、浜田剛史がただひとり、静かな背中を見せながらニュートラルコーナーに佇んでいたのが、印象的だった。"男"としてかっこよすぎた。
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著者プロフィール
宮崎正博 (みやざき・まさひろ)
20歳代にボクシングの取材を開始。1984年にベースボールマガジン社に入社、ボクシング・マガジン編集部に配属された。その後、フリーに転身し、野球など多数のスポーツを取材、CSボクシング番組の解説もつとめる。2005年にボクシング・マガジンに復帰し、編集長を経て、再びフリーランスに。現在は郷里の山口県に在住。