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ブル中野より先にアメリカで人気爆発 全女のタッグチーム「JBエンジェルス」と元東スポ記者が語り尽くす (2ページ目)

  • 大楽聡詞●取材・文 text by Dairaku Satoshi

【ベビーフェイスに転向して立野とコンビを結成】

―― 一方の山崎さんは、デビュー当時はヒール(悪役)でしたよね。

柴田:デビル雅美率いる「ブラック・デビル(デビル軍団)」の一員でした。若手時代から凶器攻撃も駆使していたし、肝が据わっていました。1984年にデビル軍が解散すると、山崎はベビーフェイスに転向して立野とコンビを結成。クラッシュ・ギャルズの二番手的な人気を獲得して、極悪同盟とも抗争しました。

――1986年1月にチーム名が「JBエンジェルス」になり、『CHANCE×3』でレコードデビュー。TBSの学園ドラマ『夏・体験物語2』にも出演するなど人気を獲得しました。

柴田:最初はタッグ名が「フレッシュ・コンビ」でしたが、改名してよかったですね(苦笑)。昔は安直なタッグチーム名もありましたから。横田利美(現・ジャガー横田)と塙せい子の「ヤング・ペア」も、トミー青山とルーシー加山の「クイーン・エンジェルス」などのチーム名に比べると、「期待の度合いが違うな」と思ってしまいます。

 1985年12月、長与のケガでクラッシュ・ギャルズがWWWA世界タッグ王座を返上。1986年1月にJBエンジェルスとブル中野&コンドル斉藤の間で王者決定戦が行なわれ、JBエンジェルスが戴冠した。でも長与がケガから復帰したあと、同年3月にはWWWA世界タッグ王座から陥落しました。

――アメリカ遠征したのは、そのあとでしたね。

柴田:そうですね。1987年6月から日本とアメリカを行ったり来たりでした。WWFからは長期遠征や完全移籍のオファーがあったけど、全日本女子プロレスの松永兄弟が本人たちの意向を無視してダメになって。それで一時、全女とWWFの関係も悪化しました。

 アメリカではWWF世界女子タッグ王者「グラマー・ガールズ(レイラニ・カイ、ジュディ・マーチン組)」のライバルとして抗争を展開して、1988年1月にはグラマー・ガールズを破って王座を獲得しました。とにかく技のクオリティが高かったから、男子レスラーたちが全員JBエンジェルスの試合を観ていたらしいですよ。

 当時の日本人女性としては、プロゴルファーとして本格的にアメリカツアーに参戦していた岡本綾子と同じくらい認知されていたと思います。アメリカでもCMに出演していましたからね。

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