ブル中野より先にアメリカで人気爆発 全女のタッグチーム「JBエンジェルス」と元東スポ記者が語り尽くす (4ページ目)
――立野さんは1991年に全女を引退した後、全女が経営していたカラオケ店「しじゅうから」で店長などをやって、1992年8月に旗揚げしたLLPWに参戦しています。
柴田:ジャパン女子プロレスは解散したあと、JWP女子プロレスとLLPWに分裂。LLPWは女子プロ界では世界初の代表取締役社長兼現役レスラーとして風間ルミが就任し、神取忍も合流しました。男子だとアントニオ猪木さんやジャイアント馬場さんらが社長兼レスラーを務めたけど、当時はまだ、女性の社長兼レスラーに対する風当たりも強くて、苦労も多かったと聞きます。
立野記代がLLPWに参戦したのは、完全燃焼していなくて「もう1回リングに立ちたい」という思いがあったんだと思います。いつの間にか全女の「25歳定年制」も消えていましたし。松永兄弟は「お嫁に行けなくなるから、という親心で25歳定年制と決めた」と言っていましたが......今では完全にアウトな表現ですが、どうやら理由はそれだけではなかったようです。
入門当初は10代が多いレスラーたちも、年齢を重ねてベテランになるといろいろとわかってきて、ギャラや待遇面で文句を言ったり抗議してきたり、うるさくなるから25歳までとしたという側面もあったという噂です。当時の全女は「批判は一切受けつけない、嫌ならやめろ」という感じでしたから......。
だから期待されてデビューしたスター候補生の、岩井和子や高橋三奈などがすぐにやめてしまった。特に岩井はハッキリものをいう性格だったからか、デビューわずか2カ月で退団。とにかくすべてにおいて、今なら問題だらけの常軌を逸した世界でしたね。
【プロフィール】
柴田惣一(しばた・そういち)
1958年、愛知県岡崎市出身。学習院大学法学部卒業後、1982年に東京スポーツ新聞社に入社。以降プロレス取材に携わり、第二運動部長、東スポWEB編集長などを歴任。2015年に退社後は、ウェブサイト『プロレスTIME』『プロレスTODAY』の編集長に就任。現在はプロレス解説者として『夕刊フジ』などで連載中。テレビ朝日『ワールドプロレスリング』で四半世紀を超えて解説を務める。ネクタイ評論家としても知られる。カツラ疑惑があり、自ら「大人のファンタジー」として話題を振りまいている。
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