ブル中野が振り返る、生死をかけたアジャコングとの金網マッチ ギロチンドロップを見舞う際「やっぱり怖くて、手を合わせた」 (5ページ目)
【ブル中野が思う「プロレス」とは?】
――現在はどのような活動をしているのでしょうか?
ブル:「Sukeban」という、日本人女子レスラーが参戦するアメリカ女子団体のコミッショナーをしています。日本人レスラーを海外に輩出する仕事です。「外国人が想像する日本人」をテーマにして、ウナギ・サヤカ選手やSareee選手ら日本人の女子レスラーに、新しいキャラクターを与えてリングに上がってもらいます。
――今年10月10日にはロンドンで興行がありましたね。
ブル:将来的にはアジアや日本、世界中で展開したいと考えていますが、もう少し海外で温めてから日本でお披露目したいですね。
――現在は、Netflixで『極悪女王』が全世界で配信されていますが、周囲の反響はどうですか?
ブル:『極悪女王』はダンプさんの物語。昨年に話題になった『サンクチュアリ―聖域-』で相撲が注目されたように、「昔の女子プロレスはこんな感じだった」と受け入れてもらえるきっかけになるかもしれない。当時の女子プロレスを観ていなかった人、若い世代には新鮮に映るでしょう。海外でも観られますから、世界が「日本の女子プロレス」に興味を持ってくれるかもしれませんね。
――最後に、ブルさんが思うプロレスの真髄とは?
ブル:結局は、あの四角いリングで「どれだけ自分の人生を魅せられるか」に尽きます。私は対戦相手の体を使って、お客さんと闘っていた感覚でした。お客さんに「プロレスを観て元気をもらった」「勇気をもらった」「明日も頑張ろう!」とか、何かを持って帰ってもらいたかった。
私が小学5年生で、初めてアントニオ猪木さんの試合をテレビで観た時に「何かしなくちゃ」と奮い立たされたように、自分も「あれができたらいいな」と命を削りながら闘っていました。プロレスから何かを感じてもらって、私たちが闘う姿を見て前向きになってもらいたい。もちろん選手によって考え方は違うでしょうけど、私はそれがプロレスだと思っています。
<プロフィール>
ブル中野
1968年1月8日生まれ、東京都出身、埼玉県川口市育ち。170cm。1983年9月23日に全日本女子プロレスでデビュー。1984年9月13日、全日本ジュニア王座獲得。1984年10月に極悪同盟加入。1985年2月、リングネームを本名の中野恵子から「ブル中野」に改名。クラッシュギャルズ(長与千種&ライオネス飛鳥)との抗争で女子プロレスブームを巻き起こした。ダンプ松本やクラッシュギャルズが引退後、WWWA世界シングル王者として団体を牽引した。1993年から1994年にかけてWWFに長期遠征。同年11月、WWF世界女子王座を獲得。1996年に再度アメリカへ遠征。翌年、遠征中に負ったケガによりプロレスラーを引退。今年4月、WWE殿堂入りを果たした。
【写真】ブル中野インタビュー フォトギャラリー
5 / 5