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ブル中野が振り返る、生死をかけたアジャコングとの金網マッチ ギロチンドロップを見舞う際「やっぱり怖くて、手を合わせた」 (2ページ目)

  • 大楽聡詞●取材・文 text by Dairaku Satoshi

――1990年11月14日、横浜文化体育館で伝説的な金網デスマッチがありました。金網の頂上から、ブルさんがアジャさんに対してギロチンドロップを放つなど、壮絶な試合でしたね。

ブル:実はその約2カ月前の9月1日、大宮スケートセンターで1回目の金網マッチが行なわれたんですが、それまで金網を立てて練習したことは一度もなかったんです。金網は組み立てるのに時間がかかりますしね。予習としては、国際プロレスのビデオを観たぐらいでした。

 だから、大宮の金網マッチは大失敗。ただ金網で囲ってあるリングで試合をしているだけで、金網をうまく利用することができなかった。最後は、アジャがレフェリーの肩を借りて金網の外にエスケープして、私が負けとなりました。試合後には、初めて「金返せ!」コールを浴びましたよ。

 そして約2カ月後に、また金網マッチをやることが決定。私は「とにかく金網を使わなくちゃいけない。使いこなせなかったら、アジャに勝ってもレスラーとして失格だ。そうなったら引退しよう」と心に決めて臨みました。

――そんな経緯があったんですね。

ブル:周囲はみんな、「ここでアジャが勝って、アジャの時代が始まる」と思っていたでしょう。でも私は、勝っても負けても「ブル中野、ここにあり!」を示せなかったら意味がない、と思っていました。

 2回目の金網マッチが決まってからは、片時もそれを忘れないよう、部屋のなかやトイレにもアジャの写真を貼りました。「最後にどんな技で倒すか?」を考えすぎて眠れない日々が続きましたが、「金網の頂上からギロチンドロップをやろう」と決めたら、やっと眠れるようになりましたね。

 ただ、「金網にどうやって登るのか」「足をかけて登れるくらいの幅があるのか」といった新たな疑問も出てきました。私は1回目の試合で、金網を1回も触っていなかったですし、依然として何もわからなかった。そんなに高いところから飛び降りたこともないし、「もしかしたら、背骨が突き出て死ぬかもしれない」とも思いました。でも、死んだら死んだで説得力もあるだろうし、お客さんもアジャも納得するだろうなと。

――2回目の金網戦は、相当な覚悟を背負っていたんですね。

ブル:本当に引退も覚悟したし、リング上で命を落とすことも覚悟しました。実際に金網の上に立ったら、アジャが小さく見えましたね。「飛ぼう」と決意してもやっぱり怖くて、祈るように手を合わせました。

 それでギロチンドロップを見舞った瞬間、リング上でバウンドして立っちゃったんです。「生きてる」と思い、すぐに金網から外に脱出して勝ちました。「1990年11月14日の、横浜文体での金網マッチ」は、自分の存在感を示すことができた大切な試合です。ただ、そのあと検査してわかったことですが、背骨の一部が欠けていました。それなりに代償は大きかったですね(苦笑)。

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