ブル中野が振り返る、生死をかけたアジャコングとの金網マッチ ギロチンドロップを見舞う際「やっぱり怖くて、手を合わせた」
ブル中野インタビュー 後編
(中編:ヌンチャクを武器とし男性ホルモンの注射を打ったわけ 人気絶頂の極悪同盟での苦悩も明かす>>)
今年の現地時間4月5日、世界最大のプロレス団体WWE(ワールド・レスリング・エンターテインメント)が、ホール・オブ・フェーム(殿堂入り)授賞式を開催。そこでブル中野が、日本人女子プロレスラー初の受賞を果たした。現役時代を彷彿させるフェイスペイントを施し、「この賞を受け取れることを、ずっとずっと待っていました。」と涙を流してのスピーチは大きな感動を呼んだ。
今でこそ多くの日本人女子レスラーが海を渡り、WWEなど海外で活躍しているが、その先駆者と言っても過言ではない。そんなブルがレジェンドレスラーとなるまでの過程で、1990年のアジャコングとの金網デスマッチは外せない。やるか、やられるか。死さえも覚悟した壮絶な闘いについて語った。
死闘になった1990年のブル中野(下)とアジャコングの金網マッチ photo by 平工幸雄/アフロこの記事に関連する写真を見る
【アジャとの壮絶な金網デスマッチ】
――1988年にダンプ松本さんが引退したあと、ブルさんがリーダーとして『獄門党』を結成。ヒールレスラーながら女子プロレス界の頂点で活躍していましたが、1990年にアジャコングさんが獄門党から脱退して対立しましたね。
ブル:私のデビューが1983年、アジャが1986年なので3年後輩です。彼女は15歳の時に全女に入門したんですが、当時のアジャは体が細く、いじめられて本当にかわいそうだった。だから、新人の時から食事に誘ったし、一番可愛がっていた後輩でした。
そんな私たちを"仲違い"させるために、全女がいろいろ仕掛けてきたんです。今思えば、その会社の策略にハマってよかったと思います。もしアジャが、私のライバルとして対角に立ってくれなかったら、今の私は存在しないでしょうから。
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