ブル中野が振り返る、生死をかけたアジャコングとの金網マッチ ギロチンドロップを見舞う際「やっぱり怖くて、手を合わせた」 (4ページ目)
【アジャコングに負けたあと、WWFへ】
――ブルさんはWWWA世界シングル王座に1057日君臨するという連続最長保持期間記録を作りましたが、1992年11月26日の川崎市体育館大会でアジャコング選手に負け、それが止まりました。
ブル:ベルトを獲得したのは1990年1月4日ですから、約3年保持したことになりますね。「王者としてのブル中野」にアジャが勝ってくれたので、「これでアジャは自信を持って、全女のチャンピオンとしてやっていける」と思いました。先ほど(中編)でも話しましたが、私が思い描いていたとおり、うまくバトンタッチできたと思います。
でも、ブル中野個人として"答え"を出さなければいけないことがありました。それは、私が1993年1月8日に25歳を迎えることでした。当時、全女にあった「25歳定年制」を破ることになる。だから、それを破ったあとの生き方を後輩たちに示していかなければならないと。
アジャに負けた時、たまたまWWF(ワールド・レスリング・フェデレーション)から「アメリカに来ないか?」と連絡が届きました。「私がアメリカに行くことで、日本とアメリカの架け橋となれば、後輩たちも行きやすくなる」と考えて渡米しました。
――アメリカのプロレスはいかがでしたか?
ブル:2002年にWWFからWWEに改称されましたが、完全にエンターテインメントです。観客も一緒に楽しむ感覚でしたね。だから、純粋な「闘い」なら、全女が世界一でした。あんなに肉体を削り合いながら、年間300試合を闘っていたわけですから。その全女のリングでやってきた自負があったので、どこの国に行こうが、誰とやろうが絶対に負けない自信はありましたね。
――その活躍が認められ、今年4月、日本人女子レスラーとして史上初の快挙となるWWEホール・オブ・フェームを受賞。WWE殿堂入りを果たしました。
ブル:日本、アメリカ、メキシコでベルトを獲って、WWEで殿堂入り。アジャとの金網マッチや、神取忍や北斗晶とのチェーンデスマッチなど、命を削りながらリングに上がっていたのが報われましたね。私は1997年に引退したけど、「受賞してやっとブル中野が終わるんだ」と。
でも同時に、責任も感じました。WWEで殿堂入りしたのはアントニオ猪木さん、藤波辰爾さん、獣神サンダー・ライガーさん、グレート・ムタさん。この方々と肩を並べたということ、日本人女性レスラー初の受賞ということで、この先の人生にも責任を持たなければいけない。軽率な態度は控え、普段から気持ちを引き締めて生活しなければと思いました。
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